ほとんどヤケクソと言ってもいいくらい、2024年もライブに行きまくってしまった。 2023年に続けて、フジロックもサマソニも参戦である。 体力も財布も相当に消耗することになってしまったが、人生に残された時間が見えてきた今、ライブに行かずしてどうするのか。 1月8日(月) ビルボードライブ横浜 岸谷香 例年は年末に行われていたビルボードでの岸谷さんのライブが、年明けになった。 一年前と同様に、総勢10名を超えるビッグバンドのステージである。 ロック・バンドやチェロとのデュオのようなフォーマットもよかったが、元気な彼女にはビッグ・バンドがぴったりだと思う。 ステージはジャズで始まったものの、プリンセス・プリンセスやソロの曲もふんだんに歌ってくれ、特に「ダイアモンド」では元々ギター・ソロだったパートをトランペットが吹きまくって大迫力であった。 重苦しいニュースが多かった2024年新年の憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれた。 1月26日(金) ビルボードライブ横浜 Memory of Jeff Beck plus. 山本恭司、安達久美、Rie a.k.a. Suzaku、須藤満、川口千里 一周忌となるジェフ・ベックを追悼するために、日本を代表する凄腕のギタリストが集まったイベント。 ジェフ・ベックの曲からは "Red Boots" "Goodbye Pork Pie Hat" "Superstition" "Sweet Sweet Surrender" などの有名どころをピックアップし、さらにジミ・ヘンドリックスの "Puple Haze" や "Little wing"、そしてジェフ・ベックっぽいオリジナル曲も数曲繰り広げた。 3人のギタリストも、ベースもドラムもやたら手数が多い、素晴らしいセッションだった。 2月3日(土) EX シアター六本木 ポール・ウエラー コロナ禍を挟んで6年ぶりの来日。 今回は大阪を皮切りに日本全国をツアーした最後に東京で〆るという流れになった。 東京だけのプレミアムとして、オープニング・アクトでポールの実の娘のリアのバンドが登場。 リアは臨月のうえ、流暢な日本語を話すという、いろいろビックリな人である。 そしてポールのステージは、新旧取り交ぜておよそ二時間強で、ジャムやスタイル・カウンシルの曲もまったく錆びついていない。 アンコールは2回にわたり、曲数は26曲にも及んだ。 実にかっこいいとしか言いようがない。 2月6日(火) Spotify O-EAST マイケル・モンロー マイケル・モンローは4年ぶりの来日である。 ステージは15分の休憩を挟んで一部と二部に分かれ、一部ではハノイ・ロックスの "Two Steps from the Move" を丸ごと再現。 続く二部はヒット・パレードとなり、凄まじいロックンロール・ショーである。 アンコールでは、盟友のチャーリー・ハーパーが現れて、マイケルと共に歌った。 マイケルはファンから受け取った似顔絵入りの団扇などをとても大切に扱っていて、とても暖かい気持ちになる。 70年代、80年代のミュージックライフ誌の世界を、そのまま時空を超えて再現してくれたライブだった。 2月13日(火) 東京ドーム クイーン+アダム・ランバート ブライアン・メイとロジャー・テイラー、アダム・ランバートによる公演も、コロナ禍を挟んで4年ぶりに実現された。 スタンドまで満席の会場で、ロジャーのボーカルによる "Radio Ga Ga" でスタート。 本編の最後の "Bohemian Rhapsody" やアンコールの"We Will Rock You" "We Are The Champions" まで、2時間以上にわたり25曲を演奏し切った。 "Bicycle Race" でアダム・ランバートがバイクにまたがったり、ブライアンのソロ・パートで宇宙を模した映像を使用したり、ところどころでフレディが画像で登場したりといった演出は、前回の来日のときと同じ。 観客側も目新しさを求めているわけでもないし、こういう予定調和でよいのだろう。 2月13日(火) EX THEATER ROPPONGI クーラ・シェイカー 何故かここ数年、頻繁に来日してくれている。 クリスピアンのカリスマ性は相変わらずで、さらに前回の来日からオルガンのジェイが復帰してくれている。 セットリストは往年の曲も新曲も一挙にたたみかけ、後半は "Hush" "Tattva" "Hey Dude" "Govinda" などのヒット曲が炸裂。 途中でジョージ・ハリスンのサイケな肖像を映し出したのは、彼らからのリスペクトであろう。 3月4日(月) Zepp DiverCity Tokyo スラッシュ ガンズからは1年半ぶり、Conspirators名義では5年ぶりの来日で、新譜「4」を引っ提げての公演になった。 御大は残念ながらいっそう肥えてしまったが、レス・ポールを右足の付け根で支えて弾きまくる奏法は健在。 特に "Wicked Stone" では10分を優に超すギター・ソロを炸裂させた。 またスラッシュがレニー・クラヴィッツのソロ・アルバムに参加した曲 "Always On The Run" も披露した。 スラッシュはギブソンのブランド・アンバサダーに就いているため、レス・ポールだけでなくフライングVやエクスプローラまで持ち出してきた。 フライングVでトーキングモジュレータかます奴なんか見たことがない。 他のメンバーもファイヤーバードやらSGやら全部ギブソン。 ライティングはシンプルなピンスポに徹しており、スタジアムでのライブのような派手な演出はなかったが、これこそハードロックというべきステージだった。 3月16日(土) 幕張メッセ PUNKSPRING コロナ禍を凌いだ2023年に7年ぶりに再開されたPUNKSPRINGが、2024年も無事開催された。 しかも2023年に出演がキャンセルされてしまったSUM 41がヘッドライナーである。 オープニングはサマソニでも実力を見せてくれたリンダ・リンダズなので、これは朝一番から行くしかない。 司会者は「モッシュは絶対にやるな。怪我しないように周囲に気を配れ。やっていいとは言ってない」と繰り返していたが、午前中からサークルピットの嵐となる。 出演バンドたちも「左右に分かれてサークルピットやれ」と煽りまくる始末である。 てっきりハードコアだと思っていたスーサイダル・テンデンシーは、ギターにワウをかましてアームやタッピング奏法を多用した速弾きソロを繰り出すし、ベースも終始スラップで速弾きだし、もはやパンクというより、良質なバカテク・バンドである。 ベースのにいちゃんはメタリカのロバート・トゥルヒーヨの息子だと言う事を後で知り、納得。 トリのSUM 41は、メロディアスでキャッチ―な楽曲を繰り出して、会場の盛り上がりが大爆発。 およそ9時間にわたる長丁場のフェスだが、たいへん充実した一日になった。 3月20日(水) 有明アリーナ ロッド・スチュワート ロッド・スチュワートが、実に15年ぶりに来日した。 公演は残念ながら東京での一回だけであったが、広い有明アリーナを埋め尽くす観客が集まった。 2月には全米ツアーを行っていたが、連日ほぼ全曲入れ替えに近い形でセットリストが変わっていたので、今回はどうなるのか全く予測がつかなかった。 蓋を開けてみれば "Ooh La La" や "Maggie May" など古典的ヒット曲を繰り出して、その間に "Have You Ever Seen the Rain?" などのカバーをたくさん挟み込むという感涙もののセトリとなった。 ステージはいかにもロッドらしくフロントにブロンドの女性6名を立たせていたが、彼女たちは只者ではなく、コーラスのみならず、バイオリン、マンドリン、ハープ、キーボード、ドラムなどを演奏し、バンドの音に厚みを加えていた。 "Maggie May" のイントロでギターが間違えていったん中断し、最初から演奏しなおしたのもご愛敬である。 4月5日(金) ビルボードライブ横浜 スウィング・アウト・シスター 相変わらずスタイリッシュなコリーンを中心に、8人編成のバンドでの来日になった。 全米6位を記録した "Breakout" から1986年から38年も経っている。 翌1987年の大ヒット曲 "Surrender" で開幕し、"La La Means I Love You" のモータウン・カバーも挟み、最後は "Breakout" で総立ち。 東京での3日間のライブをこなした直後であったこともあり、よくこなれてバランスの取れたライブだった。 5月18日(土) 東京ドーム レッド・ホット・チリ・ペッパーズ 2023年3月の来日からわずか一年あまりで、再びレッド・ホット・チリ・ペッパーズが来日した。 フジロックやサマソニでの来日と合わせると、4回目の観戦となる。 前回はドームのバルコニー席なる場所で、ステージのほぼ真横のためモニター動画すらまともに見えないという酷い状態だったが、今回はアリーナの正面真ん中の席なのでリベンジを果たした気分である。 2024年は東京ドームでの2回のライブのみだったから、全国から駆け付けた人も多いのではないかと思われ、当日券はソールドアウトで、二階席の上の方まで満席だった。 演奏は18時ぴったりに開始し、アンコールも含めて20時前に終了した。 セットリストは各アルバムから満遍なくピックアップされたヒット・パレードで、アンソニー、フリー、チャド、ジョンが全員大暴れの、たいへん楽しいライブであった。 7月26日(金)~28日(日) フジロック 2024年のフジロックは観たいバンドが目白押しだった。 いきなり初日からヘッドライナーがグリーンのキラーズとフィールド・オブ・ヘブンの上原ひろみが被っている。 そして最終日は、キム・ゴードンとライドが被っているし、どちらかを見たらその直後のオールマン・ベッツにもノエル・ギャラガーにも間に合わないという事態。 結局、初日はだらだらとグリーンで丸一日過ごすことになったが、結果としてキラーズのステージがとてもよかった。 二日目はヘッドライナーのクラフトワークが目当てだったので、午後一番からグリーンのベストな位置を陣取って確保。 ザ・ラスト・ディナー・パーティやマン・ウィズ・ア・ミッションなどを観ながら、クラフトワークを待つ。 クラフトワークのステージは「戦場のメリークリスマス」のカバーというサプライズと、それに続く「レディオアクティビティ」への圧巻の流れ。 最終日は暑い昼間をやり過ごして、夕方のジーザス・アンド・メリー・チェインから参戦し、オールマン・ベッツで〆ることにする。 オールマン・ベッツを観てから撤収のためにグリーンまで戻ったところ、予定を大幅に押しまくったノエル・ギャラガーが "Don't Look Back in Anger" を始める絶妙のタイミングになっており、最後に一曲だけシンガロングに参加することができた。 後日、オアシスが再結成され2025年に来日するとのニュースを目にすることになったが、チケットを取る事ができなかった。 フジロックで少しだけでも観ることができて、本当によかった。 8月17日(土)~18日(日) サマーソニック フジロックから一か月も経たないうちに、サマーソニックである。 直前に接近した台風で開催が危ぶまれたが、一転して台風一過の酷暑の中での開催となった。 初日の目当ては、バンドメイドとマネスキンと決めていた。 バンドメイドは激しいスラップ・ベースと超高速ギターの絡み合いなど、凄まじい演奏力を見せつけてくれた。 この後はマネスキンを目指してMarine Stageへ移動。 2023年の年末に有明アリーナで観たときは、ヴィクトリアがステージの左側だったので、左袖で待ち構えていたら案の定の大当たり。 "Don't Wanna Sleep" や "Gossip" で開幕し、アンコールの "I Wanna Be Your Slave" まで90分にわたってヒット曲の数々を炸裂させてくれた。 短いスパンでの来日のたびに激しい速度で成長を続けている、今後も楽しみなバンドである。 二日目の日曜は、地獄のサウナのような暑さなので、屋内のSonic Stageに退避。 グラム、ハードロック、エレクトロニカをごちゃまぜにしたイヴ・トゥモア。 イギリス出身のソウル・シンガー、オリヴィア・ディーンのビッグ・バンド。 ブラック・サバスとU2をかけ合わせてグランジを載せたような羊文学の轟音。 最近はラップやボーイズグループなどの参入が目立つサマソニであるが、バンド・サウンドに適うものはない。 9月16日(月) 人見記念講堂 イエス 2019年から4年ぶりの来日ツアーである。 前回はアラン・ホワイトが体調の悪い中参加していたが、その彼もとうとう亡くなってしまった。 この顔ぶれでイエスと呼べるのか甚だ疑問ではあるが、「海洋地形学」メドレーを含む長時間の二部構成でたっぷりと演奏を聴かせてくれたので、これはこれで良いのだろう。 9月28日(土) ぴあアリーナMM アイアン・メイデン 2020年に来日するはずだったのに、コロナの蔓延で中止。 こちらも聴衆側として4年越しのリベンジである。 日本をモチーフにした最新作 Senjutsu からは5曲を演奏。 ステージのバックのイラストは、道頓堀にセンター街を合体させたような怪しげなものであった。 アイアン・メイデンと言えば、3本のギターであるが、往年の曲 "Iron Maiden" や "The Trooper" などではベースのスティーヴも交えて弦楽器4本が並ぶ圧巻の姿を見せてくれた。 12月12日(木) ぴあアリーナMM ジューダス・プリースト 2019年のダウンロード・フェスから5年ぶり、単独公演としては2018年のFIREPOWER TOURツアーから6年ぶりの来日。 客電が落ちてブラック・サバスの "War Pig" が轟音で流れた後は、最新アルバムから "Panic Attack" で開始。 "Breaking the Law" や "Sinner" など往年の名曲も取り交ぜて全18曲すべて爆音メタルで通した。 73歳になったロブ・ハルフォードは動作こそヨタヨタするようになってしまったが、ハイ・トーンのシャウトはまったく衰えるところがない。 グレン・ティプトンもK.K.ダウニングもいないが、そんなことはどうでもよくなってしまった。 ダウンロード・フェスのときは終演時にロブが号泣し、観客もつられて泣くという感傷的な場面もあったが、今回は湿っぽさが一切無い、完璧なメタルである。 12月22日(日) ビルボードライブ東京 エリック・マーティン 2025年2月のMr.Big来日がアナウンスされてからさほど時間をおかず、エリック・マーティンのソロでの来日が発表された。 こちらはソロ・アルバム "Mr. Vocalist" 15周年記念のライブである。 バック・バンドは全員日本人で、一曲目は今井美樹の"Pride"で開始。 その後も、"世界中の誰よりきっと" "川の流れのように" "クリスマス・イブ" など日本の楽曲をふんだんに取り入れ、さらにMr.Bigの "Wild World" "To Be With You"も歌ってくれた。 残念ながら声があまり出ておらず、音程を外す場面もあったが、客席を一周してハイタッチをするなど大サービスであった。 ファンには至福の時間である。 2025年は正月からいきなりrockin'on sonicに参戦だし、PUNKSPRINGのチケットも押さえた。
まだまだ続く。
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2024年の訃報は、何と言っても年末になっての中山美穂さんである。
一時代を築いたトップ・アイドルの突然の死去は衝撃だった。 他にも、2024年に亡くなったミュージシャンの年齢を眺めてみると、70歳前後の方たちが多いことに気が付く。 まだまだ鬼籍に入るのは早すぎるのではないか。(以下、敬称略)
2月3日 アストン・バレット
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのベーシスト。 ウェイラーズの一員としてボブが無くなるまでバンドで支え続けた。 フロリダ州のマイアミ大学病院で77歳で亡くなった。77歳だった。
2月9日 ダモ鈴木
神奈川出身で、西ドイツのボーカリストとして活躍し、バンドの全盛期の中核となった。 1973年に脱退した後は、ダモ鈴木ネットワークで活動した。 長年抱えていた癌が悪化し、ケルンの病院で亡くなった。 享年74歳。
3月13日 エリック・カルメン
オハイオ出身のソングライター。 ソロ・デビュー・アルバム「サンライズ」からカットされたシングル「オール・バイ・マイセルフ」が全米2位を記録した。 死因は公開されていない。 74歳だった。
4月7日 亀川千代
2010年に解散したゆらゆら帝国の元ベーシスト。 メジャーデビュー前は高円寺20000Vなどに出演しており、実は私のバンドも対バンとしてお世話になったことがある。 その後、ゆらゆら帝国はフジロックやサマソニに出演する大物クラスになったが、惜しくも2010年に解散してしまった。 まだ54歳の若さだった。
4月18日 ディッキー・ベッツ
オールマン・ブラザーズ・バンドのオリジナルメンバーとして知られるギタリスト。 デュアン・オールマンとのツイン・ギターで「エリザベス・リード」など多くの名曲を世に送り出した。 デュアン亡き後のアルバム「ブラザース&シスターズ」の「ジェシカ」では、これでもかとのソロを繰り広げている。 肺疾患と癌の合併症で、80歳で亡くなった。
5月1日 リチャード・タンディ
エレクトリック・ライト・オーケストラのキーボード・プレイヤーで、デビューから1986年までのアルバムに参加し、ストリングスのアレンジも担当した。 ELO脱退後もジェフ・リンのソロ・アルバムに参加している。 享年76歳。
5月9日 ダディ竹千代
年配のロックファンには、70年代の「ダディ竹千代&東京おとぼけCATS」として知られているだろう。 80年代以降は、深夜放送オールナイトニッポンのレギュラーやプロデューサー業で活躍していた。 慢性心不全が悪化し70歳で亡くなった。
5月12日 デイヴィッド・サンボーン
フュージョン界の大御所。ブレッカー・ブラザースを経て、1975年にソロ・デビュー。 ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンなどの多数のアルバムにも参加している。 前立腺がんで享年78歳だった。
7月17日 花岡献治
日本が誇るブルース・バンドの雄、憂歌団のベーシスト。 1975年にシングル「おそうじオバチャン」でデビューし、その直後に来日したスリーピー・ジョン・エスティスと共演を果たしている。 1998年のバンド停止後の、ドラムの島田の死去に続いてしまった。 大腸がんを患わせ、70歳だった。
7月22日 ジョン・メイオール
エリック・クラプトン、ミック・テイラー、ジョン・マクヴィーらを輩出したブルースブレイカーズの主宰者で、ブリティッシュ・ブルース・ロックの巨匠。 カリフォルニアの自宅で90歳で亡くなった。 没後、2024年のロックの殿堂入りを果たした。
8月15日 ジャック・ラッセル
80年代にLAメタルのブームの中で頭角を現したグレイト・ホワイトのボーカリスト。 商業的にはメガヒットに恵まれなかったが、1990年にグラミー賞候補にノミネートされている。 ジャック・ラッセルを中心にバンドの立て直しを図っていた2003年2月20日、ライブ会場の火災によりバンドのギタリストを含む100名もの死者を出す悲劇に見舞われてしまう。 2006年にはオリジナル・メンバーで活動を再開したが、ジャックは体調不良により引退状態となってしまった。 レビー小体型認知症と多系統萎縮症の合併症と言われている。 享年63歳だった。
9月5日 セルジオ・メンデス
ボサノバの巨匠。 ビートルズ・ナンバーのカバーや、スティーヴィ・ワンダーらとのコラボでも知られている。 コロナの後遺症を拗らせ命が経たれてしまった。 83歳だった。
9月15日 ティト・ジャクソン
ジャクソン5を成すジャクソン一家の次男。 ジャクソン5以降は殆どソロ活動を行っていなかったが、晩年はB.B.キングばりのブルース・ギターを炸裂させていた。 享年70歳。
9月17日 J・D・サウザー
デトロイト出身のシンガーソングライター。 イーグルスやリンダ・ロンシュタットらウエスト・コーストのミュージシャンとの交流が深く、イーグルスとは「ニュー・キッド・イン・タウン」「ハートエイク・トゥナイト」などのヒット曲を共作した。 自身でも「ユア・オンリー・ロンリー」を大ヒットさせている。 78歳だった。
10月16日 リアム・ペイン
ワン・ダイレクションのメンバーで、グループ休止後は積極的にソロ活動を行っていた。 ワン・ダイレクション時代の盟友、ナイル・ホーランのライブを観戦するために滞在していたブエノスアイレスのホテルで、バルコニーから転落して死亡した。 まだ31歳だった。
10月21日 ポール・ディアノ
アイアン・メイデンの初期のボーカルで、1978年から1981年まで在籍し、アルバム「鋼鉄の処女」「キラーズ」を残した。 脱退後もバンド活動を続けていたが、アイアン・メイデンのような成功を収めることはできなかった。 死因は心臓の大動脈破裂と発表されている。 享年66歳。
10月25日 フィル・レッシュ
グレイトフル・デッドのベーシストで、創設メンバーの一人。 ジェリー・ガルシアやボブ・ウェアらと、ジェリーの死まで30年にわたってバンドを支え続けていた。 1995年にデッドが解散した後も、ソロ活動を行っていた。 慢性の肝炎を患っており、84歳で亡くなった。
11月3日 クインシー・ジョーンズ
トランペット・プレイヤーであり、作曲やプロデューサーとして知られている。 マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」でプロデューサーの地位を不動のものとし、チャリティー・ナンバー「ウィ・アー・ザ・ワールド」も手がけている。 享年91歳で、死因は膵臓癌と言われている。
11月14日 ピート・シンフィールド
プログレ・ファンなら知らない人はいない、キング・クリムゾンのオリジナル・メンバー。 「クリムゾン・キングの宮殿」から「ポセイドンのめざめ」「リザード」「アイランズ」まで手掛けており、フリップとの対立で脱退した後はEL&Pの「恐怖の頭脳改革」やPFMのアルバムに参加する一方、セリーヌ・ディオンに歌詞を提供するなど商業的にも成功していた。 享年80歳だった。
12月6日 中山美穂
年末になっての突然の悲報だった。 まだ54歳という若さであり、言葉もない。
年末恒例のブログとは言え、今年はきつい。
フジロックから一か月も経たないうちに、またサマーソニックである。
直前に接近した台風で開催が危ぶまれたが、一転して台風一過の酷暑の中での開催となった。 初日の目当ては、バンドメイドとマネスキンと決めていた。 まずPacific Stageで、タイのトップスターであるヴィオーレット・ウォーティアの初来日ステージを観ながらバンドメイドを待つ。 入れ替えのセッティングの時間を利用してリハを始めたバンドメイドは、ここから全力の剛速球。 一方でPAの調整を指示する言葉がめちゃくちゃ丁寧でもあり、いきなり高感度が上がりまくる。 ステージ本番でも、激しいスラップ・ベースと超高速ギターの絡み合いなど、凄まじい演奏力を見せつけてくれた。
この後はマネスキンを目指してMarine Stageへ移動。
既に日は落ちているものの、スタジアム内は激しい暑さで、滝のような汗が停まらない。 演奏が始まる前から、倒れて運び出される人が続出という状態だった。 2023年の年末に有明アリーナでマネスキンを観たときは、ヴィクトリアがステージの左側だったので、左袖で待ち構えていたら案の定の大当たり。 "Don't Wanna Sleep" や "Gossip" で開幕し、アンコールの "I Wanna Be Your Slave" まで90分にわたってヒット曲の数々を炸裂させてくれた。 2022年のサマソニ、2023年の単独公演、そして今回のサマソニと、来日のたびに駆け付けて観に行っているが、短い期間に激しい速度で成長を続けている。 これからも楽しみなバンドである。
二日目の日曜は、Marine Stageで「ちゃんみな」から始めて、グレタ・ヴァン・フリートやクリスティーナ・アギレラを観る予定だった。
ところが、スタンド席で日陰になる位置を心得ていたつもりだったのに、地獄のサウナのような暑さである。 例年、日が差していても、こんなことはなかったはずだ。
このまま居続けたら確実にぶっ倒れる気がしたので、急遽予定を変更し、屋内のSonic Stageへ移動。
結果として、実はこれが大当たりだった。 まず出てきたのが、アフリカ系アメリカ人のヴォーカルを中心にしたイヴ・トゥモア。 サウンドはグラム、ハードロック、エレクトロニカをごちゃまぜにした先鋭的なミクスチャーだった。 メンバーも、アフリカ系、アジア系、ヨーロッパ系のミクスチャーである。 初めて見聞きするバンドだったが、とてもよい体験をさせてもらった。
続けて、イギリス出身のソウル・シンガー、オリヴィア・ディーンがフルバンドを引き連れて登場。
イヴ・トゥモアとはまったく異なる音だが、こちらもすごくよい。 近年、ラップやボーイズグループなどの参入が目立つサマソニであるが、どんなジャンルであっても、やはりバンド・サウンドに適うものはない。
このままSonic Stageに居座って、NY出身のベテラン、AJRを観る。
兄弟によるユニットだが、サポート・メンバーのアフリカ系女性のトランペットの切込みが凄まじい。 またも、すごくよい。
そして、この日の目当てである羊文学が始まった。
2023年にフジロックのグリーンで初めて観て、すっかりファンになってしまったのだった。 今回は残念ながらドラムのフクダさんが体調不良のため、サポート・ドラマーを迎えてのステージとなったが、ブラック・サバスとU2をかけ合わせてグランジを載せたような轟音は相変わらずである。 とてもよい。すごくよい。
こうしてみると、2024年のサマソニは、女性たちによる轟音にやられた形になった。
マネスキンと羊文学以外はすべて初体験であったが、いずれも大収穫だった。 来年もまた楽しみである。
2024年のフジロックは観たいバンドが目白押しだった。
いきなり初日から、ヘッドライナーでグリーンのキラーズとフィールド・オブ・ヘブンの上原ひろみが被っている。 そして最終日は、キム・ゴードンとライドが被っているうえ、どちらかを見たらその直後のオールマン・ベッツにもノエル・ギャラガーにも間に合わないという事態。 初日は結局優柔不断で選択の決断ができず、結果としてグリーンで丸一日過ごすことになってしまったが、キラーズは観てよかった。 このステージでのサプライズは、最前列で「Can I Play Drums?」と書かれたプラカを掲げていたワタルさんという日本人を、ステージに引っ張り上げて飛び入りさせたことである。 こんなプラカードを掲げるだけあって、ワタルさんはキラーズの曲を研究しつくしており、合間のタムのロールまで完璧だった。 なお、この件は朝日新聞が詳しく記事に取り上げている。
二日目はヘッドライナーのクラフトワークが目当てだったので、午後一番からグリーンのベストな位置を陣取って確保。
ロンドンのガールズ・バンドのザ・ラスト・ディナー・パーティや、マン・ウィズ・ア・ミッションなどを楽しむ。
マン・ウィズ・ア・ミッションは、これまでもフジロックやサマソニで何回も観てきたが、ほぼ最前列で観るのは初めてである。
足元の悪いグリーンで、サークルピットやダイブを繰り広げる観客も大したものだが、終盤にはバンドのメンバーまでダイブに加わってしまった。
そして二日目最後はクラフトワーク。
既にあちこちで話題になっているが、最大のサプライズは故・坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」のカバーと、それに続く「レディオアクティビティ」への圧巻の流れ。 これで泣かずして、いつ泣くのか。
最終日は疲労が溜まってきたので、暑い昼間はやり過ごして、夕方のジーザス・アンド・メリー・チェインから参戦。
最後はノエルではなくオールマン・ベッツで〆ることにして、フィールド・オブ・ヘブンへ移動し、いくつかのダンサブルなバンドを見ながらオールマン・ベッツを待つ。
バンド登場とともに豪雨になってしまったが、"Blue Sky" の演奏が始まるや、またしても号泣。
びしょ濡れになりながら浴びるオールマン・ベッツの爆音は最高だった。 高齢ファンがヤラれるツボをよく押さえている。 オールマン・ベッツを観て、撤収のためにグリーンまで戻ったところ、予定を大幅に押しまくったノエル・ギャラガーが "Don't Look Back in Anger" を始める絶妙のタイミングになっていた。 最後に一曲だけシンガロングに参加することができたので、何も思い残すことはない。
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毎年毎年、ミュージシャンの訃報のリストが長くなってしまう。
哀しいことである。 2023年の特徴は、ジェフ・ベックやティナ・ターナーといったベテラン勢のみならず、ザ・ポップ・グループやキリング・ジョークのようなポスト・パンクの連中まで亡くなり始めたことだ。 それもまだ50代、60代である。 日本でも高橋幸宏さんに始まり、坂本龍一さんやHeathまで亡くなってしまった。 あまりにも早すぎるとしか言いようがない。(以下、敬称略)
1月1日 フレッド・ホワイト
いきなり元旦からの訃報である。 兄のモーリスやヴァーダインと共にアース・ウィンド&ファイアーを結成し、フレッドはドラムを担当していた。 絶頂期には "September" "Boogie Wonderland" "Let's Groove" など数々のヒット曲を叩き出している。 死因は公表されていないが、まだ67歳だった。
1月10日 ジェフ・ベック
今更こんなところで紹介するまでもない、ギターの巨人。 正月早々に大きな衝撃を受けた訃報だった。 個人的にはエディ・ヴァン・ヘイレンの訃報以来のショックである。 近年もフィンガー・ピッキングにアームのトレモロを組み合わせた独特な奏法など、最後まで進化を停めなかった。 2017年に東京国際フォーラムで最後の来日を観ることができたのは、生涯忘れないだろう。 細菌性髄膜炎の悪化で、享年78歳。
1月11日 高橋幸宏
2023年は、高橋幸宏さんも坂本龍一さんも亡くなってしまった。 いったい何ということだ。 日本の音楽シーンの損失は計り知れない。
1月12日 リサ・マリー・プレスリー
エルヴィス・プレスリーの娘で、マイケル・ジャクソンやニコラス・ケイジらとの結婚でも知られている。 心臓発作に小腸閉塞の合併症が致命傷となった。 まだ54歳の若さだった。
1月12日 ロビー・バックマン
バックマン・ターナー・オーヴァードライブのオリジナル・メンバーで、ロビーの死後わずか3か月後には弟のティムも亡くなってしまう。 享年69歳で、死因は公表されていない。
1月19日 デヴィッド・クロスビー
CSN&Yの一角であるデヴィッド・クロスビーは、4人の中で最も早く亡くなってしまった。 死因はコロナの急変と言われており、81歳だった。 ニール・ヤングを除くCSNとしての活動も2016年を最後に空中分解してしまったが、デヴィッドの死によって再結成の機会は永遠に無くなった。
1月28日 トム・ヴァーレイン
ニューヨーク・パンク・シーンを代表するテレヴィジョンのギタリスト。 前立腺がんで、73歳だった。 初期パンク・シーンの人たちも、多くがもう70代を迎えている。
2月8日 バート・バカラック
50年代から多くのポップ・ソングを生み出した稀代の作曲家。 カーペンターズやディオンヌ・ワーウィックなどが彼の楽曲を取り上げていることでも知られている。 ビルボード横浜のオープニングを記念して来日する予定だったのが、コロナ蔓延で流れてしまったのが惜しまれる。 94歳だった。
3月2日 ウェイン・ショーター
60年代のマイルス・デイヴィスのクインテットを経て、ジョー・ザビヌルらとウェザー・リポートを結成したサックス奏者。 1986年にウェザー・リポートが解散してからは、アコースティックに回帰した自身のカルテットで活躍していた。 享年89歳。
3月5日 ゲイリー・ロッシントン
レーナード・スキナードの最後のオリジナル・メンバー。 1977年の航空機事故で大半のメンバーを失った後も、ジョニー・ヴァン・ザントらとレーナード・スキナードとして活動を続けてきた。 ゲイリーの死によってオリジナル・メンバーは1人もいなくなってしまったが、バンドは現在もレーナード・スキナードとしてツアーを続けている。 71歳だった。
3月9日 ロビン・ラムリー
フィル・コリンズらを擁したジャズ・ロック・バンドのブランドXのオリジナル・メンバーの一人で、キーボードを担当していた。 メンバーの入れ替わりが激しかったブランドXのほぼ全てのアルバムに参加している。 ブランドX参加の前には、デヴィッド・ボウイのバッキングを務めたこともあった。 75歳で、心不全だった。
3月13日 ジム・ゴードン
デラニー&ボニーでの同僚だったエリック・クラプトンやカール・レイドル、ボビー・ウィットロックと、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成したことで知られている。 1983年に母親を殺害して収監され、生涯釈放されることなく、獄中で亡くなった。
3月14日 ボビー・コールドウェル
いわゆるAORを代表するシンガーの一人。 晩年は毎年のように来日し、ビルボードでライブを行っていた。 抗生物質の副作用など、長い闘病生活の後の死であった。 享年71歳。
3月28日 坂本龍一
今更言うまでもなく、日本を代表するミュージシャンだった。 高橋幸宏さんを追いかけるように、癌で亡くなってしまった。 まだ71歳で、失われた才能はあまりにも大きすぎる。
4月7日 イアン・ベアンソン
アラン・パーソンズ・プロジェクトのギタリスト。 アラン・パーソンズ・プロジェクトは、アラン・パーソンズとエリック・ウールソンによるユニットだが、イアン・ベアンソンは "Ammonia Avenue" などのヒット作を含む殆どのアルバム制作に参加していた。 またケイト・ブッシュの "The Kick Inside" や "Lionheart" などにも参加している。 69歳で認知症を悪化させて亡くなった。
4月21日 マーク・スチュワート
ポスト・パンクのザ・ポップ・グループの中心メンバーで、ボーカルを執っていた。 62歳で亡くなったが、ザ・ポップ・グループを結成した1977年ではまだ17歳であった。 死因は公表されていない。
4月28日 ティム・バックマン
兄のランディやロビーと共に、バックマン・ターナー・オーヴァードライヴのオリジナル・メンバーだった。 1974年に脱退したが、1983年に再加入している。 癌を患っており、兄のロビーを追うように71歳で亡くなってしまった。
5月11日 フランシス・モンクマン
カーヴド・エアーや801などプログレ界で名をはせたキーボード奏者。 70年代後半には、フュージョン系のスカイを結成し、特に日本では評価を受けていた。 73歳で、癌で亡くなった。
5月19日 アンディ・ルーク
80年代に活躍したザ・スミスのベーシスト。 4枚のアルバムを残して1987年にザ・スミスが解散した後は、キリング・ジョークやムーンドッグ・ワンなどで活動していた。 膵臓癌で、まだ59歳だった。
5月24日 ティナ・ターナー
1950年代から活躍し、「ロックンロールの女王」と呼ばれていた。 アルバムやシングルの売上は2億枚を超え、ライブのチケットの枚数も世界最多と観られている。 晩年は腎不全や癌、脳卒中など複数の疾患を患っていたが、死因は公表されていない。
6月20日 ジョン・ワディントン
ザ・ポップ・グループのオリジナル・メンバーの一人で、初期のアルバム二枚でギターを弾いている。 マーク・スチュワートに続いて、2人目の故人となってしまった。 ジョンもまだ63歳だった。
7月21日 トニー・ベネット
1951年に "Because of You" を全米一位に叩き込んでから、数十年にわたり近年まで精力的に活動を続けてきた。 95歳になった2021年には、レディ・ガガとのデュエット・アルバム "Love for Sales" をヒットさせている。 その後、体調維持のため引退生活を送っていたが、アルツハイマーを悪化させて、96歳で亡くなった。
7月26日 シネイド・オコナー
アイルランド出身の歌手で、カトリック教会への複雑な感情を生涯抱え続け、メンタルを悪化させて56歳の若さで亡くなった。 死因は明らかにされていない。 彼女の死の直後に開催されたフジロックのフー・ファイターズのステージでは、アラニス・モリセットと共に、シネイドに捧げる "Mandinka" がカバー演奏された。
7月26日 ランディ・マイズナー
ポコやイーグルスのオリジナル・メンバーでベーシスト。 イーグルスでは "Take it to the limit" や "Try and Love Again" などの名曲を生み出している。 ポコでもイーグルスでも、ランディが脱退した穴はティモシー・シュミットが埋める形になった。 今世紀に入ってからは、心臓疾患やアルコール依存に苦しんでおり、慢性閉塞性肺疾患の合併症で、77歳で亡くなった。
8月9日 ロビー・ロバートソン
ボブ・ディランのバック・バンドが前身であるザ・バンドを経て、1987年からソロ活動やプロデューサー稼業を続けていた。 2019年のアルバム "Sinematic" が最後の作品となった。 享年80歳。
8月24日 バーニー・マースデン
1977年のホワイトスネイクへの参加で知られるギタリスト。 ヒット曲 "Here I Go Again" はバーニーとデヴィッド・カヴァーデールとの共作である。 1982年にホワイトスネイクを解雇された後も、多数のソロ・アルバムやセッションの作品を残している。 72歳で、細菌性髄膜炎で亡くなった。
9月16日 ジョン・マーシャル
1972年にソフト・マシーンへ加入して以来、メンバーが激しく入れ替わる中、一貫してバンドを牽引してきた。 ソフト・マシーンのほか、ブリティッシュ・ロック界の無数のアルバムに参加している。 2018年にはビルボードライブで最後の来日を果たしたが、このとき既に背中が直角に曲がって歩くのがやっとという状態だったが、ドラム・スツールに座ったとたんにドラミングを炸裂させていた。 82歳で亡くなったが、死因は公開されていない。
10月29日 Heath
X Japanのベーシスト。 6月の検査で大腸癌が発見され、そのタイミングで既に手遅れの状態だった。 まだ55歳の若さだった。
11月26日 ジョーディー・ウォーカー
80年代のインダストリアル系ポスト・パンクを代表するキリング・ジョークの中心メンバーで、ギタリスト。 心臓発作で、64歳だった。
11月30日 シェイン・マガウアン
1982年に結成されたケルティック・パンクのザ・ポーグスのボーカリスト。 1996年に解散したが、2001年に再結成されツアーを続けていた。 肺炎を悪化させて、65歳で亡くなった。
12月5日 デニー・レイン
ムーディー・ブルースのオリジナル・メンバーで、さらにその後のウイングスでの活動で知られている。 ウイングスでは、結成から解散までの10年間、終始ポール・マッカートニーを支え続けた。 コロナの後遺症である肺炎で亡くなった。 79歳だった。
ミュージシャン達の年齢を考えると、残念ながらこれから先の5年間くらいは訃報がまだ増えるのだろう。
そこから後の音楽はどうなってしまうのだろうか。 2022年に再開したライブは、2023年にはいって完全に復活した。 ディープ・パープルやエリック・クラプトンといったベテラン勢に加えて、リナ・サワヤマやマネスキンのような旬のアーティストまで、多くの人たちが海外から来日してくれたことが大きな特徴であろう。 私自身、昨年末に「時間と財布が許す限り、片っ端から観に行くしかない」と書いたのだが、その通り、ライブがあればとにかく片っ端から参加してみた。 勢いで、2023年はフジロックとサマソニの両方とも行くことになってしまった。 1月20日(金) 東京ガーデンシアター リナ・サワヤマ 2022年のサマソニ以来、半年ぶりの凱旋ライブである。 サマソニ同様に、ギター、ドラム、ダンサー全て女性で編制され、超絶にかっこいい。 アコースティック・コーナーでは、"Dedicating to gay community" とのMCで、性的マイノリティに捧げる歌を歌い、会場中でレインボー・フラッグが掲げられた。 母国でのライブであるため、MCのほとんどはベタな日本語で通していたが、いわゆる "Anime" "Kawaii" "Harajuku" みたいな日系に対するステレオタイプを一切排したド直球の実力で勝負しているので、兎に角かっこいいのである。 ちょうど同時期、グウェン・ステファニーが Harajuku Girls なるプロジェクトで「まるでミンストレル・ショーだ」と文化的簒奪として批判を受け、アメリカのアジア系市民からボコボコにされているのと対照的だった。 2月13日(月) ガーデンホール クーラ・シェイカー リナ・サワヤマに続き、クーラ・シェイカーも2022年のサマソニから1年もおかずに再び来日した。 サマソニでは時間の制約があったが、今回の単独ステージでは演奏時間も正味1時間半となった。 ノリのよい "Hey Dude" で幕を開け、途中にジョン・レノンのカバー "Gimme Some Truth" などを挟んで突っ走り、これまたノリのよい "Hush" でいったんエンディングとなる。 アンコールは「ジョージ・ハリスンに捧げる」とのMCで、ラーガ・ロックの "Gokula" から "Govinda" まで演奏。 クリスピアンは、サイケなプリントを施した2本のストラトを持ち替えていた。 2月19日(日) 東京ドーム レッド・ホット・チリ・ペッパーズ 2016年のフジロック、2019年のサマソニから4年ぶりの来日。 単独公演としては2007年から16年ぶり、ジョン・フルシアンテが復帰してからは初の来日となった。 広大な東京ドームがスタンドの上のほうまでビッチリと満席である。 セットリストは2022年にリリースされたアルバム "Unlimited Love" と "Return of the Dream Canteen" を中心にしたものだったが、過去のアルバムからも満遍なくピックアップされ、特にアンコールは " Blood Sugar Sex Magik" から2曲演奏された。 ライブのスタートが17時半と非常に早く、アンコールを含めて丸二時間の演奏であったが、まだ19時半という時刻に終了してしまい、若干気抜けしてしまった。 ちなみに今回初めて東京ドームの「バルコニー席」のチケットで入場したが、ステージは遠いうえに真横、モニターすらまともに見えないという状態で、はっきり言って価格が高いだけのクソ席だった。 野球観戦ならいいのだろうが、ライブで座る席ではない。 2月27日(月) 日本武道館 メガデス こちらも2017年から7年ぶりの来日。 この日のライブはWowWowで生中継された他、全世界に同時配信された。 今回のライブには、旧メンバーで日本在住のマーティ・フリードマンが後半に参加し、"Countdown to Extinction" "Tornado of Souls" "Symphony of Destruction" の3曲を演奏して、激しいギター・ソロを繰り出した。 直前の24日の追加公演ではマーティが参加しなかったが、この日はマーティが参加した3曲がセットリストに追加される形となったとのことで、幸運であった。 3月3日(金) Zepp ダイバーシティ東京 アーチ・エネミー 2018年の六本木EX THEATERでのライブから5年ぶり。 直前にメガデスの来日があったこともあり、なぜかメガデスのシャツを着た観客が多かったのが笑える。 ライブは19時きっかりに始まって、アンコールを含めて丸二時間やってくれた。 クリア・ボイスから突如デスボイスに切り替わるアリッサの変幻自在のボーカルと、激しいヘッドバンキング。 そして、ギターは高速のスラッシュ・リフだけでなく、ブルーノートを多用した泣きのギターの絡みも聴かせてくれた。 デスメタルという狭いカテゴリーに捉われない素晴らしいバンドである。 3月8日(水) ビルボードライブ横浜 PUFFY 毎年必ず一度は見るPUFFY。 六本木のビルボードで観るのが通例だったが、今回は良い席が確保できなかったので、席に余裕のある横浜へ行ってみた。 相変わらずの脱力MCが心地好い。 この日のライブでは、洋楽のメドレーにチャレンジして、これがたいへん楽しかった。 まさかPUFFYの二人からガンズの "Sweet Child O'Mine" やMr. Bigの "More Than Words" が聴けるなんて予想すらしていない。 ビルボードのステージは短いのが残念だが、最後はお約束の「アジアの純真」「これが私の生きる道」で終了。 大満足。 3月11日(土) 有明アリーナ スティング ポリスとしてデビュー45周年を迎えるタイミングでの、4年ぶりの来日。 今回は息子のジョー・サムナーがアコギ一本で30分ほどのオープニング・アクトを務めた。 ポリスの "Message in a Bottle" で開幕した後はほぼソロの曲が続き、後半になって "Walk on the Moon" "So Lonely" など再びポリスの曲を炸裂させ、最後は "Every Breath You Take"、アンコールは "Roxanne" で盛り上げた。 およそ二時間にわたるライブだったが、使い込んだベースを持ち替えることなく、ステージを走り続けた。 恐るべき71歳。 3月13日(月) 日本武道館 ディープ・パープル ディープ・パープルも、2018年以来、5年ぶりの来日である。 1972年の初来日から実に51年経っており、当時20代だったイアン・ギランやロジャー・グローバーは77歳、イアン・ペイスは74歳である。 直前に脱退したスティーブ・モースに代わって加入したサイモン・マクブライドは、トリッキーな技を繰り出すわけではないが、しっかりとバンドを支えていた実力者である。 セットリストは新旧取り交ぜてのものとなったが、"Highway Star" で始まり "Black Night" で〆るという、正に51年前のライブを蘇らせる構成だった。 まさか51年も経ってから、この場所で "Highway Star" を演奏するとは、本人たちも夢にも思わなかっただろう。 3月26日(日) 幕張メッセ LOUD PARK 2017年を最後に、さらにコロナの影響もあって6年間開催されてこなかったLOUD PARKが、ようやく復活した。 ナイト・ウィッシュやストラトヴァリウスのようなシンフォ系に、カーカス、クリーター、スレイヤーといったゴリゴリのエクストリーム系、スラッシュ系を取り交ぜた、メタルの幅広いサブ・ジャンルを含むフェスとなった。 観客側にとっても待ちに待ったイベントであったため、午後早い時刻のブリード・フロム・ウィズインから、会場のあちこちでサークル・ピットやモッシュ、ダイブが炸裂。 ヘッドライナーのスレイヤーでは、ザック・ワイルドが超重量級のギターを堪能させてくれた。 バンドとバンドの間にまったく休憩がない、さながらメタル耐久レースのようだったが、とても楽しいイベントであった。 4月1日(土) ビルボード東京 リチャード・カーペンター カレンが亡くなってから40年も経ってしまった。 カーペンターズとしての最後の来日は1976年なので、実に47年の時を経てのライブである。 まずはリチャードがピアノだけで "Close to You" を弾き始めたので、最初から涙腺決壊。 "Rainy days and Mondays" や "I Need to Be in Love" などのヒット曲が続くが、全てピアノのみの演奏である。 おそらくカレンへのリスペクトなのだろう。 一方、MCの時間はふんだんに取り、しかも通訳まで付けてくれており、日本のファンとのコミュニケーションに十分配慮してくれているのが判る。 しかも観客から質問を受け付けるコーナーまで設けてくれた。 「カレンのボーカルがワン・テイクでOKとなった曲があると聞いたが、どの曲か?」とのマニアックな質問に対して、リチャードは「カレンは才能があったのでワン・テイクの曲はいくつもあったが、"Only Yesterday" もその一つだ」と答えて、「本当はセットリストになかったんだけど」と言いながら、そのまま "Only Yesterday" を演奏してくれた。 この後は楽器をエレピに替えて、リチャードの娘たち3人が登場して、"I’ll be yours" や "Top of the world" を演奏。 さらに日本でのみリリースされていたというカラオケ音源を使っての "Jambalaya"。 観客には予め "Jambalaya" の歌詞が配布されており、シンガロングできるようになっているというサービスぶりである。 アンコールは再びリチャード一人となって "We've Only Just Begun" を演奏した後、娘たちが再度加わって "Yesterday Once More" を観客と共に合唱。 またも涙腺崩壊ライブである。 4月12日(水) 東京ガーデンシアター ボブ・ディラン 2018年のフジロック出演以来、5年ぶりの来日となった。 本来は2021年の春に予定されていたツアーがコロナの影響をもろに受けてキャンセルになってしまい、改めてプランされたものである。 ライブは予定の19時ぴったりに始まって、およそ100分間にわたって17曲を演奏した。 この間、ボブはグランドピアノから離れることなく、またMCもアンコールもないスタイルであった。 東京に先立つ大阪での3公演も東京とまったく同じセットリストであるとの情報を確認しており、さらに直前のヨーロッパ・ツアーでも同じセットリスト通りだったようである。 このライブでは、MC無し、アンコール無し、映像効果やモニター無し、しかもスマホ持ち込み禁止で、スマホは電源を強制的に切らされて、鍵付きのシールド・ケースに入れられてしまった。 いろいろ面倒くさい。 4月15日(土) 日本武道館 エリック・クラプトン 毎回「これが最後」と言われるエリック・クラプトンは、2019年以来、4年ぶりである。 今回は、来日公演100回目を含む記念すべき来日で、しかも初日は、初来日と同じ日本武道館でのライブとなった。 私自身も1975年の2回目の来日からほぼ欠かさず観ており、ライブアルバム "Just One Night" の音源にもなった武道館公演にも行っているので感慨ひとしおである。 今回のライブの前半はブルースを中心としたエレクトリックなセットで、"Key to the Highway" や "I'm Your Hoochie Coochie Man" を演奏した。 中盤はアコースティック・セットで、"Nobody Knows You When You're Down and Out" や "Tears in Heaven" のような定番曲に加え、ブルースのカバーを数曲演奏した。 なお "Tears in Heaven" の途中にはプロコル・ハルムの "A Whiter Shade of Pale" を挟み込んだ。 この2年間に数名のメンバーが亡くなったことへの追悼だろう。 最後は再びエレクトリックに戻って、"Badge" や "Layla" などのヒット曲を炸裂させた。 ここ近年、車いす姿を目撃されるなどエリックの健康に不安があったが、今回のライブは現役感あふれるものであった。 80年代に一時間以上遅れたうえ泥酔していてボロボロな演奏を見せられた経験からは、開演予定の19時ぴったりに始まるのも考えられないことである。 今回のライブは、この20年くらいの中ではベストに入るのではないか。 4月20日(木) ビルボード横浜 PLAYING FOR CHANGE with Char 日本、アメリカ、ジャマイカ、南アフリカ、コンゴなど8か国からの総勢12名によるワールド・ミュージックの展示会のようなライブ。 ブルージーな曲もあったものの、ほとんどがリンガラやレゲエをベースにした天然のダンスミュージックだった。 Charはソロをあまり取らず、ほぼカッティングに徹していた。 シブくも楽しい時間だった。 5月10日(水) ビルボード東京 ジョージ・クリントン & PARLIAMENT FUNKADELIC ほぼ一年おきに来日しているジョージ・クリントン & PARLIAMENT FUNKADELICを観るのは3回目である。 80歳を超えているジョージ・クリントン総裁は前回の来日で終始座りっぱなしだったが、今回はいきなり客席に飛び込むなど非常に元気で、半分の時間は歩き回っていた。 彼も健康が回復したようで何よりである。 バンドのメンバーは総勢14名におよび、狭いビルボードのステージはひしめき合うようであった。 今回の来日では、10分に渡るギターソロなど、メンバーそれぞれにスポットを当てる、従来見られなかった配慮がされていた。 5月12日(金) 川崎CLUB CITTA’ スティーヴ・ヒレッジ・バンド & ゴング スティーヴ・ヒレッジ・バンドとゴングによる2018年以来5年ぶりの来日。 前回はビルボードでゴングにスティーヴがゲスト参加する形だったが、今回はしっかり2本立てのライブとなった。 とは言え、オープニングがゴングで、それにスティーヴとミケット・ジローディが加わったらスティーヴ・ヒレッジのバンドというものである。 ゴングは、複雑な変拍子と構成で、ピエール・モエランが主導権を握っていた頃の演奏を彷彿とさせるものであった。 一方、スティーヴ・ヒレッジが加わると、デヴィッド・アレンによる初期ゴングに近いものとなり、ライティング・ショウも Radio Gnome Invisible のアニメを多用していた。 ワウファズにエコーを効かせたスティーヴのギターが全開である。 しかし間に25分の休憩を挟んだとはいえ、ライブは3時間を超えており、演奏側の集中力と体力は大変なものあっただろう。 6月26日(月) ブルーノート東京 ラリー・カールトン 通常の私の守備範囲から完全に離れたジャンルであるが、たまにはよい。 クルセイダースやスティーリー・ダンの曲をそれぞれ数曲演奏してくれたが、さすがに私でも知っているし、締めは "Room 335"。 リアルタイムで聴いたのは中学生のときだったので、もう半世紀も経っている曲なのかと思うと、しみじみする。 当時はロングヘア―だったラリーも、今や完全なスキンヘッドになってしまった。 6月29日(木) Spotufy O-East ブラッディウッド 世界的に注目を集めている、ニューデリー出身の6人組のメタルバンド。 フロントは2人のリード・シンガー(というよりラッパー)が担い、定番のギター、ベース、ドラムに加え、インドの伝統的な打楽器奏者も参加している。 さらにベーシストは時折伝統的な横笛を吹くのだが、60年代のサイケ系のバンドやクーラ・シェイカーのような「ラーガロック」の風味は欠片も無い。 終始、爆音のメタルで、バンドも観客もヘッドバギングしっ放し、ジャンプしっ放しである。 ハードロックやメタルを半世紀聴いてきたのだが、これは完全に初体験であった。 7月21日(金) 日本武道館 トト コロナ禍を挟んでの4年ぶりの来日。 残念ながらオリジナル・メンバーはスティーヴ・ルカサーだけになってしまった。 しかし他のメンバーも多くのバンドやレコーディング・セッションで磨き上げた凄腕ばかりで、しかも全員がリードボーカルも執れるため、コーラスも絶妙である。 演奏した曲数は15曲で1時間半を超えるくらいだったが、"Hold the Line" "Rosanna" "Africa" などのヒット・パレードで、お腹がいっぱいになった。 アンコールはビートルズの "Little Help from my Friend"。 スティーヴがリンゴ・スターのバンドでツアーをする際の定番曲だが、スローバラードにアレンジしたもので、こちらも素晴らしい演奏だった。 7月25日(木) Line Cube Shibuya スパークス 2018年と2022年のサマーソニックで来日しているが、単独公演は2017年以来6年ぶり。 おりしもニューアルバム "The Girl Is Crying in Her Latte" がリリースされた直後であり、3割ほどの曲がここからのものだったが、"A Woofer in Tweeter's Clothing" や "Kimono My House" などからも幅広く選曲された。 飄々としたロンと、踊りまくるラッセルの好対象は相変わらずである。 ワールドツアーの最後が日本、しかも来日の最終日ということもあって、アンコール終了後も涙を浮かべて名残惜しそうに中々袖へ引っ込まない2人が印象的であった。 7月26日(水) 日本武道館 Mr.Big 2017年の来日から6年ぶり。 この間に、残念ながらパート・トーピーがパーキンソン病で亡くなってしまい、今回はニック・ディヴァージリオをサポート・ドラマーに迎えての公演となった。 Wow Wowの生中継が入っていることもあり、19時きっちりに始まり、30曲近くを2時間半繰り広げた。 特にビリー・シーンはダブル・ネックのベースを1時間近く使い続けており、恐るべき体力である。 セットリストはヒット・パレードで、途中のアコースティック・コーナーはアリーナの中心にセリ出た花道での演奏となり感涙。 最後には各メンバーの家族に加えて、パットの遺族をビリーがステージ上で紹介するサプライズもあり、メンバーも観客も全員が涙腺決壊状態になってしまった。 7月28日(金)~ 30日(日) フジロック コロナ蔓延まではフジロックかサマソニのどちらかに行くようにしていたのだが、私自身7年ぶりのフジロックになった。 今回の目当てはフー・ファイターズである。 2015年のフジロックで観たときは、デイヴ・グロールが骨折治療中で、椅子に座ったままだったことを思い出した。 残念ながらテーラー・ホーキンスが亡くなってしまうという事件を挟んでの再度のフジロックだが、デイヴはことあるごとに "For Fuji!" を叫び、まったく湿っぽくならずに最後まで駆け抜けた。 フー・ファイターズの日本でのライブは必ずゲストが参加するので、それも楽しみの一つであるが、今回はアラニス・モリセットが加わって、先日亡くなったばかりのシニード・オコーナーの "Mandink" を演奏。 さらに後半には翌日演奏する予定のウィーザーのパトリック・ウィルソンが現れ、"Big Me" に加わった。 最高である。 それから、フェスならではの楽しみ方の一つは、普段あまり縁のないアーティストやバンドを観ることである。 今まで一度もみたことがない矢沢永吉を見届けようというのも、今回の目的のひとつであった。 はっきり言って最高でした。 斜に構えて臨んだことを心底詫びたい。 「まもなく74歳になります。ストーンズは80歳でもがんばってるからね。ははは、言っちゃった」との自爆MCも素敵だった。 永ちゃんに頭を引っ叩かれたような思いをしたのも、今回最大の成果。 8月14日(月) ブルーノート東京 小野リサ フジロックとサマソニの谷間の、ブルーノートでボサノヴァ。 いただいていた招待券を使ったので、ミュージック・チャージは無しで観ることができた。 小野リサのバンドでサックスを吹いていたブラジル出身のGustavo Anacletoさんは、直前のフジロックで永ちゃんのライブでも吹いていたことがリサのMCで発覚。 守備範囲が広すぎである。 8月19日(土)~ 20日(日) サマーソニック フジロックから僅か3週間後のサマーソニック。 懸念された台風の影響はなく、空は晴れ渡り、とにかくクソ暑いが、初日は一日中マリン・スタジアムのスタンドから観戦することにした。 正午から始まった韓国の女性チームのニュージーンズから、すでにアリーナは溢れんばかりの人でいっぱいになっており、スタンドもてっぺんまで満席である。 一年前のストラッツでは、アリーナの前のほうに一塊の人がいるだけだったので、一年でこの変わりようには驚いた。 主催者側が「モッシュやダイブやるな」って言ってるのに、バンド自ら率先して客席のど真ん中にダイブするファール・アウト・ボーイ。 9年ぶりの来日となったブラー。 すっかり体が干上がってしまったが、最高であった。 なお、読売新聞が「大量の熱中症による搬送者が発生」と報じていたが、確かに殺人的な日差しだったので、日陰にいなければ多分10分で倒れただろうと思う。 やはりステージまで多少遠くても、スタンドの屋根の下で観戦するに限る。 二日目は、まずメッセ内のマウンテン・ステージで、ノヴァ・ツインズと、ももクロの二組の女性グループを観てから、再びマリンのスタンドへ移動。 この日の目当てはリアム・ギャラガーだったが、それまでK-Popやラップなど普段はほとんど縁のないジャンルの人たちのパフォーマンスをリラックスして楽しんだ。 リアムは、セットリストの半分がオアシス時代の曲で、観客と大合唱。 この時点で既に8時間経過しており、完全に力尽きてしまった。 リアムの後は再度マウンテン・ステージへ戻ってBabymetalを観るつもりだったが、体力も気力も完全に限界を超えていたため、ここで打ち止めである。 やはり真夏の酷暑の下でのフェス二日間はきつい。 9月19日(火) KT Zepp Yokohama エクストリーム ニューアルバム "Six" を引っ提げての、7年ぶり、10回目の来日。 "It" や "Decadence Dance" といった古典的名曲で幕を開け、2時間にわたり19曲を演奏してくれた。 ニューアルバムからも4曲演奏し、アンコールはすべて新曲で占められていた。 自分達の曲の頭に、クイーンの "We Will Rock You" や "Fat Bottomed Girls"、ヴァン・ヘイレンの "Eruption"、ジェームス・ブラウンの "Sex Machine" を持ってくるような、先人に敬意を払う遊びも見せてくれた。 途中、"Midnight Express" でヌーノが8分に渡るアコースティック・ソロを披露し、そのまま "More Than Words" に突入したが、その他はひたすらファンキーでノリのいいハードロックで押し通した。 メンバー4人とも終演後もなかなか引っ込まず、名残惜しそうにしていたのが印象的であった。 9月21日(木) Zepp DiverCity オリアンティ 2016年のリッチー・サンボラとの公演以来、7年ぶりの来日。 今回は自身のバンドを引き連れてのライブとなった。 途中で2つのアコースティック・ナンバーを演奏したが、それ以外はすべてヘヴィなハードロックとブルースである。 マイケル・ジャクソンのバックで演奏していた "Black and Whie" を披露したほか、自らヒーローと公言するサンタナの "Europa" やジミ・ヘンドリックスの "Voodoo Chile" もカバー。 アンコールも含めて1時間20分程度で、昨今ではコンパクトなセットだが、充実したステージだった。 9月23日(土) Zepp DiverCity テスタメント / エクソダス / デス・エンジェル 西海岸スラッシュ・メタルの3バンドが The Bay Strikes Back と題したパッケージ・ツアーで来日した。 会場側から事前に「モッシュやダイブはお止めください」とのアナウンスがあったにもかかわらず、オープニングのデス・エンジェルから激しいモッシュが開始。 エクソダスは「写真を撮ろうが、ダイブしようが全然かまわないから気を付けてやってくれ」とのMC。 さらに最前列の客に向かって「左右に分かれろ」と指示して、わざわざサークルピットのための準備まで煽る始末である。 最後のテスタメントまでおよそ4時間、立ちっぱなし、暴れっぱなしで、完全に力尽きた。 10月17日(火) 豊洲PIT スティーヴ・ヴァイ スティーヴ・ヴァイの単独来日公演は2014年以来9年ぶり。 2014年のときはビルボードだったので演奏時間は1時間程度であり、その後の2019年の来日はザック・ワイルドやイングヴェイ・マルムスティーン、ヌーノ・ベッテンコートらとの "Generation X" としてだった。 たびたび来日してくれてはいたものの、2時間半にもわたってスティーヴの演奏を堪能できたのは初めてである。 セットリストはオープニングの "Avalanche" を含め、半分近くがアルバム "Inviokate" からのもので、ほぼインスト。 ギターをボーカルに模してのコール・アンド・レスポンスまでやってみせた。 途中、トリプル・ネックのギター「ハイドラ」を用いた凄まじい演奏の後は、会場に居合わせた日本人製作者を紹介する心遣いもあった。 長時間にわたるインストのライブだったが、まったく飽きることのないものであった。 10月18日(水) TOKYO DOME CITY HALL テデスキ・トラックス・バンド デレク・トラックスとスーザン・テデスキの夫婦を中心に、ツイン・ドラムやホーン・セクションなど総勢12名の大編成のバンド。 スーザンの強烈なボーカルとギターに絡んで、デレクのスライド・ギターが炸裂する。 来日直前の全米ツアーでは、連日、全曲総入れ替えのセットリストで演奏していたので、曲目はまったく予測がつかない。 この日はデレク・アンド・ザ・ドミノスの "Bell Bottom Blues" をカバーしたが、日によってはオールマン・ブラザースやレオン・ラッセルのカバーになることもあるようだった。 要するに、行けるものなら全日程行けということなのだろう。 21世紀も四半世紀過ぎているのに、こんな音を浴びることができるとは思わなかった。 11月3日(金) Kアリーナ横浜 モトリー・クルー / デフ・レパード デフ・レパードとモトリー・クルーのダブル・ヘッド・ライナーのライブ。 デフ・レパードは2018年から5年ぶり、モトリー・クルーは2015年以来、実に8年ぶりの来日となった。 この組み合わせで8月まで全米ツアーを行っており、横浜がワールド・ツアー再開の初日となった。 デヴィッド・ボウイの "Heros" が爆音で流れる中、予定の17時ぴったりにデフ・レパードから始まった。 デフ・レパードはニュー・アルバムの "Take What You Want" から始まり、最後の "Photograph" まで全17曲のヒット曲を一時間半にわたって繰り広げた。 後半、ジョーの声がかすれてきたのが残念である。 その後30分のインターバルを挟んで、モトリー・クルーが開始。 こちらも "Wild Side" から "Kick Start My Heart" までヒット・パレード。 引退したミック・マースの後継ギタリストであるジョン5が大活躍しており、さりげないフレーズの中にもトリッキーな技を繰り出して、ミックの穴を埋めるどころか、ライブを完全に牽引していた。 11月19日(日) すみだトリフォニーホール ダリル・ホール / トッド・ラングレン トッド・ラングレンとダリル・ホールの来日共演。 この二人の組み合わせで全米ツアーを行った直後の来日である。 会場の「すみだトリフォニーホール」は、2019年のトッド・ラングレン単独公演の際にも使った会場だ。 ダリル・ホールは2015年のホール&オーツ以来、8年ぶりの来日になった。 まず第一部はトッド・ラングレンが登場し、およそ一時間の演奏を繰り広げた。 一曲目の "Real Man" から、途中のモータウン・メドレーも含め、トッドらしさが何も変わっていない安定のライブだった。 トッドの後に20分ほどの休憩を挟んで、ダリルが登場。 バンドのメンバーは、トッドのときと変わらない。 ソロ・アルバムやホール&オーツの曲はもちろんのこと、ポール・ヤングに提供した "Everytime You Go Away" やユーリズミックスの "Here Comes the Rain Again" のピアノ弾き語りまで披露してくれた。 そしてアンコール一回目は、トッドも参加して "Wait for Me" や "Can We Still Be Friends" を演奏。 二回目のアンコールはお約束の "Private Eyes" で盛り上がった。 11月24日(金) Line Cube Shibuya ワイナリー・ドッグス マイク・ポートノイ、ビリー・シーン、リッチー・コッツェンによるスーパー爆音トリオ。 このバンドとしては2016年以来7年ぶりの来日だが、ビリー・シーンは7月にMr. Bigで来日してから4か月しか経っていない。 客電が落ちて、グランド・ファンクの "We're an American Band" とジョージ・クリントンの "Atomic Dog" が爆音で流れる中、三人が登場。 アンコールの "Regret" でリッチーがピアノを弾いた箇所以外はバラードも無く、すべて爆音のハード・ロックで押し切った。 ビリー・シーンのベース・ソロは8分にも及んでおり、Mr.Bigでは彼なりに抑制をかけていたのだろうと推測された。 12月2日(土) 有明アリーナ マネスキン 2022年のサマソニのマリンステージから1年半を経ての単独初来日で、丸二時間の演奏を繰り広げてくれた。 この期間に人気が世界的にうなぎ上りで、広大な有明アリーナも満席となっていた。 ステージはライティングを駆使した演出で、これも真昼間のサマソニからまったく異なるものであった。 途中、アリーナ席のど真ん中にステージが浮かび上がり、アコースティック・セットを披露するサプライズも。 ギターのトーマスは、4回に渡って客先にダイブして演奏し、ヴォーカルのアミアーノも客席にダイブして歌ってくれた。 現在進行形で最高峰のバンドである。 毎年年末、必ずビルボードで観ていた岸谷香さんのライブが、なぜかこの冬は1月とのことで、マネスキンが年内最後のライブ観戦となった。
年が明ければすぐ、クイーン、ポール・ウェラー、クーラ・シェイカーなどが目白押しなので、とても楽しみである。 コロナ蔓延の前までは、毎年フジロックとサマーソニック(以下「サマソニ」)のどちらかに必ず参戦していた。 この夏、コロナ自体は第9波で高止まりしたままだが、フジロックもサマソニも通常の開催に戻ったので、この際両方フルに参加してみることにした。 まず7月28日から30日の3日間がフジロックである。 天気に恵まれたのはよかったが、とにかく日差しとの闘いだった。 メインのグリーン・ステージは、日陰を求めて数少ない樹木の下の奪い合い。 フィールド・オブ・ヘブンは最後方に若干の日陰があったものの、時間とともに一面日向になってしまった。 10分も日に当たっていると、意識を失いそうになるほど暑い。 しかたないので、現場にあった工作物と木の間にビニールシートをぶら下げて、簡易テントを作ってみた。 テントの持ち込みや日傘が禁止事項であるのはもちろん判ったうえでの事なのだが、ここから後ろには藪で誰もいないし、見逃してくれたようである。 ところで今回のフジロックでは、全ての飲食で現金が使えず、電子決済が導入されていた。 これが超絶ポンコツな代物で、特にパスモなど交通系カードは処理に数分かかる始末である。 おかげでどの店舗も長蛇の列で、稲荷寿司を買うだけで30分もかかっってしまった。 店側もこんな回転率では商売にならず、「お客様からも運営に苦情入れてください」と頼まれるような状況だった。 当然ながら初日に相当数の苦情が主催側にあったと思われ、二日目からは「現金不可」があっさり撤回された。 まるで某マイナ保険証のような大失態である。 客は待たされ、店側はピンハネされ、誰も幸せにならない仕組みなので、来年は止めてもらいたい。 個人的に、今年のフジロックの最大の目当ては、2日目のフー・ファイターズだった。 テイラー・ホーキンズ亡き後どうなることかと思ったが、デイヴ・グロールを中心に、完璧なショーを繰り広げてくれた。 そして思わぬ収穫だったのが、初日の永ちゃんである。 いままで全く縁のない人だったが、本当に最高だった。 なんでファンがあんなに熱くなるのかも、よくわかった。 これは一緒にタオル投げしたくなりますよね。 こういう体験があるから、フェスは止められないのである。 フジロックの最大の問題は、宿泊と交通機関であろう。 苗場から下山するためのバス待ちを避けるため、フー・ファイターズの最後の数曲を残してグリーン・ステージからバス乗り場に向かったのだが、これがまったく甘かった。 既にバス待ちの列は乗り場が見えないところまで伸びており、しかもまったく動かない。 22時過ぎに並び始めたのに、バスに乗れたときはもう日付が変わっていた。 過去には、越後湯沢から苗場へ向かうバスも2時間以上待ったことがある。 これは本当にどうにかならないのだろうか。 フジロックから3週間経過して、8月19日と20日の2日間がサマソニである。 こちらも心配された台風が逸れて、朝から雲一つない晴天。 初日はマリン・スタジアムに腰を落ち着けて、一日過ごすことにした。 マリンはステージに向かって右側のスタジアム席なら終日日陰になっていることを経験上わかっていたので、さっそく居場所を確保。 しかしスタジアムから眺めるアリーナの人出は凄まじいものである。 昼過ぎのNewJeansから、身動きも取れないであろうほどの立ち見客になっている。 昨年の同じ時刻帯では、アリーナの前方に一塊の人たちがいるだけだったので、数倍どころか数十倍の人出になっていたのではないか。 翌日の報道で知ったが、案の定100人以上が救護室に運び込まれ、救急搬送された人もいたとのこと。 ステージの前のほうで観たい気持ちは痛いほどわかるが、真夏のフェスは無理せず安全第一で過ごしたほうがよいだろう。 それから主催者側が「モッシュやダイブやるな」と警告しているのに、ファール・アウト・ボーイのようにバンド自ら率先して客席のど真ん中にダイブする連中もいるから、アリーナはいろいろ覚悟したうえで臨まないと本当に危険である。 そしてサマソニ2日目は、まずメッセ内のマウンテン・ステージで、ノヴァ・ツインズとももクロを観る。 ノヴァ・ツインズはイギリスの女性二人組で、楽器は歪みまくった爆音ベースとドラムのセットが殆ど。 初めて聴いたが、これは大収穫だった。 この後は例によってマリンへ移動し、目当てのリアム・ギャラガーまでのんびり過ごす。 リアムのステージの半分はオアシス時代の曲で占められ、大合唱大会になる。 当初の予定では、ここで再びマウンテン・ステージに移動してベビメタを観るつもりだったが、もう力尽きてしまい、撤退することにした。 ベビメタのライブも凄くよかったらしいので残念であるが、体力の消耗には勝てないので仕方ない。 さて、フジロックとサマソニを続けてハシゴしたのは初めてなので、いろいろ比較しておきたい。 フジロックは宿泊関連がとにかく最悪。 毎度、苗場周辺で宿を確保できるはずもなく、越後湯沢やかぐら周辺、場合によっては新幹線で一駅乗って、浦佐に宿を取ることもあった。 今年泊まった宿は、なんと風呂無し、トイレ無し、さらに空調無しという驚愕の環境だった。 これで幕張のホテルのツイン一人使用とほぼ同価格なのであるから、これをボッタクリと言わずして何と言えばいいのか。 それから、前述したように、苗場のバス待ち時間も最悪である。
自宅からサマソニまでの移動時間と、苗場のバス待ちの時間がほぼ一緒。 首都圏に住んでいれば、サマソニ日帰りも全然苦にはならない。 フジロックのバス待ちは苦行である。 加えて、サマソニではマダニに咬まれない。 うまくスケジュールを考えれば、直射日光を避けられる。 そして何と言ってもトイレが清潔だし、一歩会場の外に出れば普通に食事ができる。 結局、出演者の顔ぶれ以外においては、すべての点でサマソニに軍配を上げざるを得ない。 もう自分の年齢的にも、フジロックは無茶になってきているのだろう。 残念である。
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2022年に亡くなったミュージシャンを追悼する記事の中で、「ロック黄金期の70年代から半世紀」と書いたのが昨年末である。
それから既に1か月が経過し、50周年盤の企画が耳に入り始めてきたので、このあたりで半世紀前に当たる1973年のロック・シーンを振り返ってみたい。 まず、この年はプログレ・シーンにとっても絶頂期であった。 リリースされたアルバムは、ピンク・フロイド「狂気」、イエス「イエスソングス」、EL&P「恐怖の頭脳改革」など大作そろいで、その後、長期にわたって聴き継がれてきたものが多い。 アルバム名を敢えて邦題で書いてみたが、ぶっ飛んだ意訳のものが多く、しかもそれが的を得ているところが面白い。 プログレ以外でも、レッド・ツェッペリン「聖なる館」、クイーン「炎のロックンロール」、ザ・フー「四重人格」など、ぶっ飛んだ邦題ですっかり定着しているのではないか。 様々な新しい音楽が興る中、60年代の大御所が変わろうともがいていたのも、この年の特徴である。 イギリスではエリック・クラプトンがドラッグで何年も引き籠った状態だったが、ピート・タウンジェントらの助けを得て、レインボー・シアターでリハビリを兼ねたライブを行った。 翌年1974年には、大きく変貌を遂げた "461 Ocean Boulevard" で復活を果たすことになる。 一方、ビートルズは解散からまだ3年しか経っておらず、再結成を期待する空気が強かった。 ポールはウィングスでツアーを開始し、ジョンは "Mind Game" を、ジョージは "Living in the Material World" をそれぞれリリースし、ソロ活動で既に成功している。 年末にはリンゴのアルバム "Ringo" に、ポール、ジョン、ジョージ全員が楽曲を提供し、再結成の期待がますます高まったが、遂に叶うことはなかった。 そしてアメリカでも、グランド・ファンク・レイルロード、オールマン・ブラザース、ニューヨーク・ドールズなど様々なジャンルが入り乱れての百花繚乱状態であった。 時代は混乱の60年代から落ち着きを取り戻しつつあったが、ベトナム戦争が終結するまでさらに2年待たなければならなかった。 そして南米チリでは民主的に選出されたアジェンデ政権が、CIAにバックアップされた軍部ファシストのクーデターで倒され、暗黒の時代を迎えることになってしまった。
1月6日 カーリー・サイモン “You're So Vain” 全米一位。
1月9日 ローリング・ストーンズの来日、ミック・ジャガーのドラッグを理由に入国できずキャンセル。
1月13日 エリック・クラプトンがレインボー・コンサートで復帰、カーリー・サイモン ”No Secret” 全米一位五週、スレイド “Slade” 英一位三週。
1月18日 ローリング・ストーンズがニカラグア大地震被災者救済コンサート開催。
1月27日 スティーヴィ・ワンダー “Superstition” 全米一位。
1月30日 キッス、ステージ・デビュー。
2月3日 エルトン・ジョン “Crocodile Rock” 全米一位、スティーヴィ・ワンダー “Talking Book” 全米三位。 2月10日 エルトン・ジョン “Don't Shoot Me I'm Only the Piano Player” 英一位六週、3月3日には全米一位。
2月17日 ウォー “The World Is A Ghetto” 全米一位、フリー最後のライブ。
2月24日 バーズ、米国で最後のライブ。 3月3日 グラミー賞で “The Concert for Bangla Desh” が最優秀アルバム受賞。
3月8日 ポール・マッカートニー、スコットランドにてマリファナ所持で罰金。
3月10日 ピンク・フロイド “The Dark Side of the Moon“ (邦題「狂気」)リリース、28日に全米一位。
3月24日 アリス・クーパー “Billion Dollar Babies” 英一位。
3月28日 レッド・ツェッペリン “Houses of the Holy” リリース、4月10日に全英一位、5月12日に全米一位。
4月2日 ビートルズ、いわゆる赤盤・青盤リリース、青盤は5月26日全米一位。
4月9日 クイーン、マーキーでライブ・デビュー。
4月13日 ロジャー・ダルトリー “Daltrey” リリース。 4月25日 スウィート “Little Willie” ゴールド。 4月28日 フェイセス “Ooh La La” 英一位。
5月1日 バックマン・ターナー・オーヴァードライヴ “Bachman-Turner Overdrive” リリース。
5月7日 ジョージ・ハリスン “Give Me Love” リリース。
5月11日 ウィングス初の全英ツアー。
5月14日 スティーヴィ・ワンダー “You Are the Sunshine of My Life” 全米一位。 5月17日 “Yessongs” ゴールド。
5月21日 エドガー・ウィンター “Frankenstein” 全米一位、6月19日にゴールド。
5月23日 ボブ・ディランとザ・バンドのベイスメント・テープス公開。
5月26日 ディープ・パープル “Smoke on the Water” リリース、8月28日にゴールド。
5月28日 ロニー・レイン、フェイセスを脱退。
5月29日 バーズ解散、マイク・オールドフィールド “Tubular Bells” リリース。 6月1日 ロバート・ワイアット骨髄損傷。 6月2日 ウイングス “My Love” 全米一位、”Red Rose Speedway” 全米一位。
6月23日 10CC “Rubber Bullets” 英一位。ジョージ・ハリスン “Living in the Material World” 全米一位。
6月29日 第二期ディープ・パープル解散。 6月30日 ジョージ・ハリスン “Give Me Love” が、ポールの “My Love” を蹴落とし全米一位。 7月2日 イーノ、ロキシー・ミュージックを脱退。 7月6日 クイーン “Keep Yourself Alive” でデビュー。
7月7日 ビリー・プレストン “Round in the Circles” 全米一位二週。
7月13日 クイーン “Queen” リリース。 7月14日 ゲイリー・グリッター、ライブ・デビュー。 7月27日 ニューヨーク・ドールズ “New York Dolls” リリース。
7月28日 グランド・ファンク・レイルロード “American Band” 、9月27日に全米一位。
7月29日 レッド・ツェッペリン、18万ドルの盗難被害。
8月7日 映画 “Jesus Christ Superstar” リリース。 8月11日 エドガー・ウィンター・グループ “Free Ride” リリース。 8月18日 ジェスロ・タル “A Passion Play” 全米一位、ドゥービー・ブラザース “China Grove” リリース。
8月20日 ローリング・ストーンズ “Angie”、10月に全英・全米共に一位。
8月26日 10CCライブ・デビュー。
8月31日 ローリング・ストーンズ “Goats Head Soup” リリース。 9月1日 ロッド・スチュワート “Sing It Again Rod” 英一位三週、キャンディーズがシングル「あなたに夢中」で歌手デビュー。
9月8日 マーヴィン・ゲイ “Let's Get It On” 全米一位、オールマン・ブラザース “Brothers and Sisters” 全米一位五週。
9月15日 チリ軍事独裁政権がヴィクター・ハラを虐殺。
10月6日 スレイド “Sladest” 全英一位四週。
10月12日 エルトン・ジョン “Goodbye Yellow Brick Road” ゴールド。
10月15日 キース・リチャード、フランス入国禁止評決。 10月24日 ジョン・レノン、米政府を盗聴などで告訴。 10月27日 エアロスミス、ボストンでモット・ザ・フープルの前座。 10月29日 ジョン・レノン “Mind Game” リリース、ザ・フー “Quadrophenia” リリース。
11月2日 リンゴ・スター “Ringo” リリース。
11月3日 デヴィッド・ボウイ “Pinups” 英一位五週、ホール&オーツはアルバム・デビュー。
11月9日 ビリー・ジョエル “Piano Man” リリース。
11月10日 ジョン・レノンがフィル・スペクターに “Rock’n Roll” のプロデュースを依頼。 11月24日 リンゴ・スター “Photograph” 全米一位。
12月1日 カーペンターズ “Top of the World” 全米一位。
12月2日 ザ・フー、モントリオールのホテル破壊でメンバーとクルー全員逮捕。
12月3日 リンゴ・スター “You're Sixteen” リリース。 12月10日 CBGB開店。 12月12日 EL&P “Brain Salad Surgery”(邦題「恐怖の頭脳改革」) ゴールド。
12月15日 スレイド “Merry Xmas Everybody” 英一位五週。
12月24日 ドゥービー・ブラザースのトム・ジョンストン、マリファナ所持で逮捕。
12月31日 AC/DCがシドニーで、ジャーニーはサンフランシスコでライブ・デビュー。
ローリング・ストーンズの“Goats Head Soup”は既に2022年に50周年記念盤がリリースされ、ピンク・フロイドの "The Dark Side of the Moon" も予定が見えてきた。
こうなったら、とことん付き合ってやろうと思う。
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ロック黄金期の70年代から半世紀、当時憧れ、愛聴していたミュージシャンたちは後期高齢者となり、年々亡くなる人も増えてきた。
特にそのころ絶頂だったハードロックやプログレ系のバンド・メンバーに顕著である。 今年亡くなった顔ぶれには、キング・クリムゾン、イエス、プロコル・ハルム、ナザレスなどのバンド出身者が目に着く。 そして2022年、いよいよ80年代、90年代に活躍した人たちまで亡くなり始めた。 ディペッシュ・モード、ハッピー・マンデーズ、ボン・ジョヴィのメンバーがこんなに早く亡くなるとは年初に予想されたであろうか。 フー・ファイターズのテイラー・ホーキンズに至っては、まだ50歳だった。 フー・ファイターズの単独ライブを観ることはかなわなかったが、今にして思えばフジロックやサマソニで観ることができたのは不幸中の幸いであった。 年齢とともにミュージシャンの演奏力がグダグダに落ちていく姿に触れるのも辛いものだが、それでも生きていてこそのものである。 薬物のオーバードースなんてバカなことは止めて、健康体で長生きしてほしい。(以下、敬称略) (最終更新 2022年12月24日 21:00)
1月7日 ボビー・ハリスン
プロコル・ハルムの創設期のドラマー。 「青い影」のリリース直後に脱退し、フリーダムやスナフーというバンドに参加していた。 享年82歳で、死因は公開されていない。
1月10日 バーク・シェリー
1968年にデビューしたウェールズ出身のハード・ロック・トリオ、バッジーのベーシスト。 バッジ―はメンバー交代を繰り返しながら、バークは亡くなるまでオリジナル・メンバーとして残っていた。 71歳。
1月18日 ディック・ハリガン
ブラス・ロックの草分けであるブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの創設メンバーの一人で、1968年から1971年まで在籍。 トロンボーンやキーボードを担当し、作曲でも大きな貢献をしている。 BS&T脱退後は作曲活動を中心に活躍していた。 ローマにて78歳で「自然死」したと伝えられている。
1月20日 ミートローフ
60年に渡るキャリアで多くのヒット・アルバムをとばした、テキサス出身のボーカリスト。 映画「ロッキー・ホラー・ショー」での怪演でも有名。 トッド・ラングレンのプロデュースによるソロ・アルバムは、長期間にわたってチャート入りしていた。 死因はコロナ感染によるものと伝えられている。 74歳だった。
2月9日 イアン・マクドナルド
キング・クリムゾンやフォリナーの創設メンバーとして知られており、キング・クリムゾンではフルート、サックス、メロトロンなどのマルチ・プレイヤーとして才能を発揮した。 ダリル・ウェイやスティーヴ・ハケットのバンドにも参加しており、プログレ界に大きな軌跡を残した。 癌で亡くなった。享年75歳。
2月19日 ゲイリー・ブルッカー
ボビー・ハリスンに続き、プロコル・ハルムの創設メンバーであるゲイリー・ブルッカーも亡くなってしまった。 大ヒット曲「青い影」ではピアノとリード・ボーカルを担当しており、バンドの主宰者でもあった。 76歳で、癌だった。
3月25日 テイラー・ホーキンズ
テイラー・ホーキンズの突然の死は、ロック界に大きな衝撃をもたらした。 フー・ファイターズのツアー中、コロンビアのボゴタのホテルで亡くなっているのが発見された。 薬物の過剰摂取が原因とみられている。 フー・ファイターズは直ちにツアーを中止したが、ロンドンとロサンジェルスで大規模な追悼コンサートが開催され、多くのミュージシャンが参加した。 50歳はあまりにも若すぎた。
4月20日 アンドリュー・ウールフォーク
アース・ウィンド・アンド・ファイアーのトランぺッターで、1973年から1985年、1987年から1993年の黄金期に活躍した。 同僚のフィリップ・ベイリーがグラミー賞を受賞したソロ・アルバムにも参加している。 近年は長い闘病生活を送っていたと伝えられる。 71歳だった。
4月26日 クラウス・シュルツ
ジャーマン・クラウトロックの雄、タンジェリン・ドリームやアシュ・ラ・テンペルのメンバーで、74年の生涯で60枚以上のアルバムを残している。 2022年にリリースされたアルバム "Deus Arrakis" が遺作となった。 死因は公開されていない。
5月17日 ヴァンゲリス
ギリシャ出身のキーボード奏者。 プログレ・ファンなら誰しも、アフロディテス・チャイルド名義の「666」を知っているだろう。 イエスのジョン・アンダーソンとのコラボでも知られている。 79歳で心不全。
5月26日 アラン・ホワイト
キング・クリムゾンに加入するため脱退したビル・ブルフォードの後釜で、イエスに参加した。 ライブ・アルバムの名盤「イエスソングス」がイエスでの初の作品となった。 イエス以前にはセッション・ドラマーとして活躍しており、1969年のトロント・ロック・アンド・ロール・フェスティバルに、ジョン・レノンやエリック・クラプトンらと共にプラスチック・オノ・バンドとして出演した。 来日は2019年のイエスが最後となったが、この時既にリズムが揺れまくっていたので、体力が相当落ちていたのだろう。 死因は発表されていないが、72歳だった。
5月26日 アンディ・フレッチャー
80年代初頭のニュー・ウェーブ全盛期にデビューしたディペッシュ・モードでベースとキーボードを担当していた。 自宅で大動脈解離を発症して急逝したと伝えられている。 まだ60歳だった。
6月5日 アレック・ジョン・サッチ
ボン・ジョヴィの創設メンバーで、1994年の脱退までベースを担当していた。 アレックは1951年生まれで、1962年のジョン・ボン・ジョヴィや1958年のリッチー・サンボラらよりも一回り年長だった。 ボン・ジョヴィ脱退後はオートバイの販売など、音楽活動からは距離を置いていたという。 心不全で、享年70歳だった。
7月5日 マニー・チャールトン
スコットランド出身のハードロック・バンド、ナザレスのギタリスト。 1974年のアルバム "Hair of the Dog" で、ハードロック・バンドとしての名声を獲得した。 ナザレスは現在も続いているが、マニーは1990年に脱退している。 80歳だった。
7月15日 ポール・ライダー
80年代中盤のマンチェスター・ムーブメントの中心的なバンドであるハッピー・マンデーズのベーシスト。 死因は公開されていない。 まだ58歳であった。
8月8日 オリビア・ニュートン=ジョン
オーストラリア出身のイギリス人ポップ・シンガー。 女優としても知られており、1978年の「グリース」でジョン・トラボルタと共演している。 80年代から90年代にかけて多くのヒット曲を飛ばしており、なかでも1981年の "Physical" はビルボード10週連続1位のメガヒットとなった。 1992年に乳がんに罹患したことを公表し、長年の闘病生活を送っていた。 73歳だった。
10月28日 ジェリー・リー・ルイス
1950年代のロックンロールの始祖の一人で、"Whole Lotta Shakin' Goin' On" や "Great Balls of Fire" などのヒットで知られており、ジョニー・ウィンターなど多くのロッカーにカバーされている。 60年代後半にカントリーに転向し、さらに多くのヒット曲を飛ばした。 21世紀に入ってからも "Last Man Standing" や "Mean Old Man" といったアルバムをヒット・チャートに叩き込んだ。 2019年に脳卒中で倒れて療養生活を送っていたものの回復せず、87歳でなくなった。
11月8日 ダン・マッカファーティー
ナザレスは、マニー・チャールトンに続いて、ボーカルのダン・マッカファーティーまで失ってしまった。 ダンは体調を崩し、2013年に脱退していた。 享年76歳。 バンドとしてのナザレスは存続しているが、オリジナル・メンバーはベーシストのピート・アグニューだけになっている。
11月9日 ギャリー・ロバーツ
アイルランド出身のブームタウン・ラッツのギタリスト。 ボーカリストのボブ・ゲルドフがバンド・エイドやライブ・エイドで名声を集める中、バンドとしては停滞し、1986年に解散した。 2013年に再結成し、2020年には36年ぶりのアルバムを制作したものの、72歳で亡くなってしまった。
11月10日 ニック・ターナー
スペース・サイケ・ロックの草分けであるホークウィンドでのキャリアで知られている。 サイケなメイクを施して、サックスとフルートを演奏した。 ソロ・アルバムやゲスト参加したアルバムも数多く残している。 享年82歳。
11月11日 キース・レヴィン
ザ・クラッシュの創設メンバーにして、パブリック・イメージ・リミテッドのギタリスト。 特に "Metal Box" に代表される初期から中期のPILのアルバム制作に多大な貢献をしている。 PIL脱退後はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのプロデュースなどを行っており、2010年にジャー・ウーブルと共にPILに戻っていた。 肝臓癌の合併症で、65歳で亡くなった。
11月21日 ウィルコ・ジョンソン
2013年に膵臓癌を宣告され、10年にわたる闘病を続けてきたウィルコ・ジョンソンが、遂に力尽きてしまった。 闘病中にも関わらず来日を果たし、ライブも行っている。 ウィルコがギターを弾いていたドクター・フィールグッドはパブ・ロックの代表的なバンドで、日本のロック・シーンにも多大な影響を与えている。 75歳だった。
11月25日 アイリーン・キャラ
1983年の映画「フラッシュダンス」の主題歌である "Flashdance... What a Feeling" の大ヒットで知られている。 その後はほとんど音楽活動を行っていない。 享年63歳。
11月30日 クリスティン・マクヴィー
ブルース・ロックのチキン・シャックを経て、1970年にフリートウッド・マックに参加。 半世紀にわたるキャリアを誇る。 初期のフリートウッド・マックのブルース系アルバムの後、1976年にアルバム "Rumours" を大ヒットさせた。 晩年はソロ活動で活躍していたが、2022年11月に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。 79歳だった。
12月4日 マニュエル・ゲッチング
クラウス・シュルツに続いて、アシュ・ラ・テンペルの元メンバーであるマニュエル・ゲッチングが亡くなってしまった。 2000年にはクラウス・シュルツェとアシュ・ラ・テンペルを再結成していた。 享年70歳で、老衰とみられている。
12月6日 ジェット・ブラック
ジェット・ブラックは、ストラングラーズのオリジナル・ドラマーだった。 2020年にはキーボードのデイヴ・グリーンフィールドがコロナで亡くなっている。 パンクスとしては高齢なバンドで、ジェットは84歳だった。
12月16日 リック・アンダーソン
チューブスのベーシストで、創設者のひとり。 70年代のハチャメチャなショーで知られるところになった。 4月17日には、ステージ・アクトやボーカルを担当していたリ・スタイルスも72歳で亡くなっている。 死因は公開されていないが、75歳だった。
12月18日 マーティン・ダフィ
80年代から90年代にかけて活躍したプライマル・スクリームのキーボード。 マーティンはセカンド・アルバムから参加している。 夏のサマソニで来日したばかりだった。 まだ55歳のあまりにも早い死に、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
12月19日 テリ-・ホール
スペシャルズのリード・ボーカルとして、英スカ・シーンを牽引した。 スペシャルズを離れた後も、ファン・ボーイ・スリーなどで活躍していた。 享年63歳で、すい臓がんだった。
来年の今頃、どんな記事を書くことになるか、想像もしたくない。
それより、まず自分自身も、いつまでも爆音を楽しめるように、健康にだけは気を付けたい。
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ロバート・プラントの交通事故によって1975年のツアー中止を余儀なくされたレッド・ツェッペリンは、持て余した時間でレコーディングに集中し、翌1976年3月、世紀の名盤 "Presence" をリリースした。
そして1977年に入り、一年半ぶりに全米ツアーを再開する。 しかし "Presence" の曲も引き下げてのツアーにもかかわらず、この年も幸運に恵まれなかった。 4月19日、シンシナティのリバー・フロント・コロシアムでのライブでは、チケットが完売となり、ゲートを強行突破しようとした70名が逮捕された。 6月3日のタンパ・スタジアムでのライブは、激しい雷雨に見舞われて短縮され、暴動が発生して、またも多くの逮捕者を出す結果となった。 7月23日、カリフォルニア州オークランドでは、プロモーターのスタッフが激しく暴行を受けるという事件で、バンドのスタッフと共に、ジョン・ボーナムも逮捕される事態になっている。 そして7月30日、フレンチクォーターのホテルにチェックインした彼らを待っていたのは、ロバートの息子、カラックがウイルス性の疾患で急死したとの知らせだった。 ツアーはまたしても中止となり、さらに2年後の1979年のネブワース出演の直後にジョン・ボーナムが亡くなってしまう。 こうして、この年以降、レッド・ツェッペリンのツアーが再開されることはなくなってしまった。 1977年のツアーでの演奏は、様々な事件に加えて、ロバートやジミーの体調が芳しくないこともあり、今ひとつパッとしない。 とは言え、ツアーを再開したばかりの4月には2時間ほどの長さだったセットリストは、ツアーを続けるにつれてどんどん長くなり、7月には3時間半を超えるようになる。 ブート音源だけでなく、動画が残されているのも1977年の特徴である。 特に最終に近い7月17日のシアトルでのライブは、プロショットのマルチカメラによる動画として、奇跡的に丸ごと記録されている。 また、6月23日のカリフォルニア州イングルウッドでのライブでは、キース・ムーンがステージに乱入し、ロバートがドラム・キットの中へ避難する姿を観ることができる。 なお、今回の1977年のツアーの情報も、ledzeppelin.com を参照させていただいた。 この他、1969年から1975年までのライブと1979年の音源は、既に下記のように整理してあるので、併せて参照いただきたい。
1977年の全米ツアーは、オクラホマ州のオクラホマ・シティで始まった。
初日の4月1日の音源は見つけることができなかったが、ツアー2日めとなる4月3日分はいくつかの音源が残っている。
4月6日から10日までは、シカゴ・スタジアム。
シカゴ2日目の4月7日。
4月9日のシカゴ。
シカゴ最終日の4月10日。
4月19日と20日はオハイオ州シンシナティ。
4月20日、シンシナティ2日目。
その後、南部へ移動する。
4月23日、ジョージア州アトランタ。
4月25日、ケンタッキー州ルイーズヴィル。
4月27日と28日は再びオハイオ州へ戻る。
クリーブランドのリッチフィールド・コロシアム。
4月28日、クリーブランド2日目。
4月30日、ミネソタ州ポンティアック。
5月前半は休暇を取り、中盤から中南部を廻る。
5月18日、アラバマ州バーミンガム。
5月21日、テキサス州ヒューストン。
5月22日、テキサス州フォトワース。
東海岸へ移動し、メリーランド州ランドオーバーでは5月25日から3日間ライブが行われた。
ランドオーバー、5月28日分。
ランドオーバー、5月30日分。
そして6月7日から、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで6晩、ライブが続けられた。
6月8日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月11日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月13日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月14日、マディソン・スクェア・ガーデン。
その後、西海岸でのツアーとなる。
6月19日のサン・ディエゴ。
6月21日からカリフォルニア州イングルウッドでは6晩ものライブが行われた。
6月22日 、イングルウッド。
6月23日、イングルウッド。
6月23日のライブでは、キース・ムーンがステージに乱入する一部始終が動画として残されている。
6月25日、イングルウッド。
6月26日、イングルウッド。
6月27日、イングルウッドでの最終日。
7月17日のシアトルでのライブは、3時間半にわたる動画として記録されている。
7月20日はアリゾナ州テンプ。
7月23日、レッド・ツェッペリンのツアーの最終地となったカリフォルニア州オークランド。
結果的に最終日となってしまった7月24日のオークランドでのライブは "No Quarter" が残されていた。
そしてこの直後、ロバート・プラントの息子が亡くなるという悲劇が到来してしまう。
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