Photo by Growtika on Unsplash English follows Japanese 大変残念だが、日本は特殊詐欺大国である。 特殊詐欺とは、京都府警察によれば、次のように定義されている。 特殊詐欺とは、被害者に電話を掛けるなどして対面することなく信頼させ、指定した預貯金口座への振り込みその他の方法により、不特定多数の者から現金をだまし取る犯罪の総称です。 日本では、ほぼ毎日、特殊詐欺の被害が報道されている。 例えば、2月23日、大分県で、警察官を騙る手口で1000万円をだまし取られる特殊詐欺事件が発生したと報じられている。 そして驚くべきことに、在日外国人をターゲットにした特殊詐欺が現れるに至った。 在日インド大使館は、サイトのトップページで、次のように注意を促している。 詐欺電話の手口: 私の友人の一人であるインド人男性は、「インド大使館勤務のJohn Milon」を名乗る男から、「パスポートに虚偽の記載があるから、即刻インドへ戻って修正するか、もしくはコンビニから金を払え」との電話があったそうである。 彼は一瞬パニックになりかけたが、インド大使館へ電話をし確認したところ、同様の詐欺が多発しているので十分注意するよう促されたとのことだ。 在日外国人にとって最もセンシティブな在留資格を手玉に取る、最低最悪に卑劣なやり口と言わざるを得ない。 なお、「John Milon」を名乗る人物の話す英語は、アメリカやイギリス、インドのそれではなく、いかにも日本人的な発音だったとのことである。 このような卑劣な詐欺は、わが国では日常茶飯であるので、くれぐれもご注意いただきたい。 It is very unfortunate, but Japan is a nation of phone frauds. Phone fraud is defined by the Kyoto Prefectural Police as follows Phone fraud is a generic term for crimes that defraud an unspecified number of people out of their cash by making victims trust them without meeting them face-to-face, for example, by calling them on the phone, and then transferring money to a designated savings account or by other methods. In Japan, victims of phone fraud are reported almost daily basis. For example, on February 23, it was reported that in Oita Prefecture, a phone fraud case in which 10 million yen was swindled by tricking a victim into believing a caller was a police officer occurred. Then, surprisingly, phone fraud targeting foreigners living in Japan began to appear. The Embassy of India in Japan cautions on the top page of its website as follows. The method adopted by the criminals is often as follows: One of my friends, an Indian gentleman, told me that he received a call from a man claiming to be "John Milon, who works at the Indian Embassy" telling him that his passport had a false entry and that he should immediately return to India to correct it or pay the money from a convenience store.
He almost panicked for a moment, but called the Indian Embassy to confirm and was urged to be very careful as similar scams are common. I must say that this is the most despicable way to take advantage of the most sensitive status of residence for foreign residents in Japan. The English spoken by the person claiming to be "John Milon" was not American, British, or Indian, but had a distinctly Japanese pronunciation. Please be aware that such despicable scams are an everyday occurrence in our country.
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2022年に亡くなったミュージシャンを追悼する記事の中で、「ロック黄金期の70年代から半世紀」と書いたのが昨年末である。
それから既に1か月が経過し、50周年盤の企画が耳に入り始めてきたので、このあたりで半世紀前に当たる1973年のロック・シーンを振り返ってみたい。 まず、この年はプログレ・シーンにとっても絶頂期であった。 リリースされたアルバムは、ピンク・フロイド「狂気」、イエス「イエスソングス」、EL&P「恐怖の頭脳改革」など大作そろいで、その後、長期にわたって聴き継がれてきたものが多い。 アルバム名を敢えて邦題で書いてみたが、ぶっ飛んだ意訳のものが多く、しかもそれが的を得ているところが面白い。 プログレ以外でも、レッド・ツェッペリン「聖なる館」、クイーン「炎のロックンロール」、ザ・フー「四重人格」など、ぶっ飛んだ邦題ですっかり定着しているのではないか。 様々な新しい音楽が興る中、60年代の大御所が変わろうともがいていたのも、この年の特徴である。 イギリスではエリック・クラプトンがドラッグで何年も引き籠った状態だったが、ピート・タウンジェントらの助けを得て、レインボー・シアターでリハビリを兼ねたライブを行った。 翌年1974年には、大きく変貌を遂げた "461 Ocean Boulevard" で復活を果たすことになる。 一方、ビートルズは解散からまだ3年しか経っておらず、再結成を期待する空気が強かった。 ポールはウィングスでツアーを開始し、ジョンは "Mind Game" を、ジョージは "Living in the Material World" をそれぞれリリースし、ソロ活動で既に成功している。 年末にはリンゴのアルバム "Ringo" に、ポール、ジョン、ジョージ全員が楽曲を提供し、再結成の期待がますます高まったが、遂に叶うことはなかった。 そしてアメリカでも、グランド・ファンク・レイルロード、オールマン・ブラザース、ニューヨーク・ドールズなど様々なジャンルが入り乱れての百花繚乱状態であった。 時代は混乱の60年代から落ち着きを取り戻しつつあったが、ベトナム戦争が終結するまでさらに2年待たなければならなかった。 そして南米チリでは民主的に選出されたアジェンデ政権が、CIAにバックアップされた軍部ファシストのクーデターで倒され、暗黒の時代を迎えることになってしまった。
1月6日 カーリー・サイモン “You're So Vain” 全米一位。
1月9日 ローリング・ストーンズの来日、ミック・ジャガーのドラッグを理由に入国できずキャンセル。
1月13日 エリック・クラプトンがレインボー・コンサートで復帰、カーリー・サイモン ”No Secret” 全米一位五週、スレイド “Slade” 英一位三週。
1月18日 ローリング・ストーンズがニカラグア大地震被災者救済コンサート開催。
1月27日 スティーヴィ・ワンダー “Superstition” 全米一位。
1月30日 キッス、ステージ・デビュー。
2月3日 エルトン・ジョン “Crocodile Rock” 全米一位、スティーヴィ・ワンダー “Talking Book” 全米三位。 2月10日 エルトン・ジョン “Don't Shoot Me I'm Only the Piano Player” 英一位六週、3月3日には全米一位。
2月17日 ウォー “The World Is A Ghetto” 全米一位、フリー最後のライブ。
2月24日 バーズ、米国で最後のライブ。 3月3日 グラミー賞で “The Concert for Bangla Desh” が最優秀アルバム受賞。
3月8日 ポール・マッカートニー、スコットランドにてマリファナ所持で罰金。
3月10日 ピンク・フロイド “The Dark Side of the Moon“ (邦題「狂気」)リリース、28日に全米一位。
3月24日 アリス・クーパー “Billion Dollar Babies” 英一位。
3月28日 レッド・ツェッペリン “Houses of the Holy” リリース、4月10日に全英一位、5月12日に全米一位。
4月2日 ビートルズ、いわゆる赤盤・青盤リリース、青盤は5月26日全米一位。
4月9日 クイーン、マーキーでライブ・デビュー。
4月13日 ロジャー・ダルトリー “Daltrey” リリース。 4月25日 スウィート “Little Willie” ゴールド。 4月28日 フェイセス “Ooh La La” 英一位。
5月1日 バックマン・ターナー・オーヴァードライヴ “Bachman-Turner Overdrive” リリース。
5月7日 ジョージ・ハリスン “Give Me Love” リリース。
5月11日 ウィングス初の全英ツアー。
5月14日 スティーヴィ・ワンダー “You Are the Sunshine of My Life” 全米一位。 5月17日 “Yessongs” ゴールド。
5月21日 エドガー・ウィンター “Frankenstein” 全米一位、6月19日にゴールド。
5月23日 ボブ・ディランとザ・バンドのベイスメント・テープス公開。
5月26日 ディープ・パープル “Smoke on the Water” リリース、8月28日にゴールド。
5月28日 ロニー・レイン、フェイセスを脱退。
5月29日 バーズ解散、マイク・オールドフィールド “Tubular Bells” リリース。 6月1日 ロバート・ワイアット骨髄損傷。 6月2日 ウイングス “My Love” 全米一位、”Red Rose Speedway” 全米一位。
6月23日 10CC “Rubber Bullets” 英一位。ジョージ・ハリスン “Living in the Material World” 全米一位。
6月29日 第二期ディープ・パープル解散。 6月30日 ジョージ・ハリスン “Give Me Love” が、ポールの “My Love” を蹴落とし全米一位。 7月2日 イーノ、ロキシー・ミュージックを脱退。 7月6日 クイーン “Keep Yourself Alive” でデビュー。
7月7日 ビリー・プレストン “Round in the Circles” 全米一位二週。
7月13日 クイーン “Queen” リリース。 7月14日 ゲイリー・グリッター、ライブ・デビュー。 7月27日 ニューヨーク・ドールズ “New York Dolls” リリース。
7月28日 グランド・ファンク・レイルロード “American Band” 、9月27日に全米一位。
7月29日 レッド・ツェッペリン、18万ドルの盗難被害。
8月7日 映画 “Jesus Christ Superstar” リリース。 8月11日 エドガー・ウィンター・グループ “Free Ride” リリース。 8月18日 ジェスロ・タル “A Passion Play” 全米一位、ドゥービー・ブラザース “China Grove” リリース。
8月20日 ローリング・ストーンズ “Angie”、10月に全英・全米共に一位。
8月26日 10CCライブ・デビュー。
8月31日 ローリング・ストーンズ “Goats Head Soup” リリース。 9月1日 ロッド・スチュワート “Sing It Again Rod” 英一位三週、キャンディーズがシングル「あなたに夢中」で歌手デビュー。
9月8日 マーヴィン・ゲイ “Let's Get It On” 全米一位、オールマン・ブラザース “Brothers and Sisters” 全米一位五週。
9月15日 チリ軍事独裁政権がヴィクター・ハラを虐殺。
10月6日 スレイド “Sladest” 全英一位四週。
10月12日 エルトン・ジョン “Goodbye Yellow Brick Road” ゴールド。
10月15日 キース・リチャード、フランス入国禁止評決。 10月24日 ジョン・レノン、米政府を盗聴などで告訴。 10月27日 エアロスミス、ボストンでモット・ザ・フープルの前座。 10月29日 ジョン・レノン “Mind Game” リリース、ザ・フー “Quadrophenia” リリース。
11月2日 リンゴ・スター “Ringo” リリース。
11月3日 デヴィッド・ボウイ “Pinups” 英一位五週、ホール&オーツはアルバム・デビュー。
11月9日 ビリー・ジョエル “Piano Man” リリース。
11月10日 ジョン・レノンがフィル・スペクターに “Rock’n Roll” のプロデュースを依頼。 11月24日 リンゴ・スター “Photograph” 全米一位。
12月1日 カーペンターズ “Top of the World” 全米一位。
12月2日 ザ・フー、モントリオールのホテル破壊でメンバーとクルー全員逮捕。
12月3日 リンゴ・スター “You're Sixteen” リリース。 12月10日 CBGB開店。 12月12日 EL&P “Brain Salad Surgery”(邦題「恐怖の頭脳改革」) ゴールド。
12月15日 スレイド “Merry Xmas Everybody” 英一位五週。
12月24日 ドゥービー・ブラザースのトム・ジョンストン、マリファナ所持で逮捕。
12月31日 AC/DCがシドニーで、ジャーニーはサンフランシスコでライブ・デビュー。
ローリング・ストーンズの“Goats Head Soup”は既に2022年に50周年記念盤がリリースされ、ピンク・フロイドの "The Dark Side of the Moon" も予定が見えてきた。
こうなったら、とことん付き合ってやろうと思う。
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ロック黄金期の70年代から半世紀、当時憧れ、愛聴していたミュージシャンたちは後期高齢者となり、年々亡くなる人も増えてきた。
特にそのころ絶頂だったハードロックやプログレ系のバンド・メンバーに顕著である。 今年亡くなった顔ぶれには、キング・クリムゾン、イエス、プロコル・ハルム、ナザレスなどのバンド出身者が目に着く。 そして2022年、いよいよ80年代、90年代に活躍した人たちまで亡くなり始めた。 ディペッシュ・モード、ハッピー・マンデーズ、ボン・ジョヴィのメンバーがこんなに早く亡くなるとは年初に予想されたであろうか。 フー・ファイターズのテイラー・ホーキンズに至っては、まだ50歳だった。 フー・ファイターズの単独ライブを観ることはかなわなかったが、今にして思えばフジロックやサマソニで観ることができたのは不幸中の幸いであった。 年齢とともにミュージシャンの演奏力がグダグダに落ちていく姿に触れるのも辛いものだが、それでも生きていてこそのものである。 薬物のオーバードースなんてバカなことは止めて、健康体で長生きしてほしい。(以下、敬称略) (最終更新 2022年12月24日 21:00)
1月7日 ボビー・ハリスン
プロコル・ハルムの創設期のドラマー。 「青い影」のリリース直後に脱退し、フリーダムやスナフーというバンドに参加していた。 享年82歳で、死因は公開されていない。
1月10日 バーク・シェリー
1968年にデビューしたウェールズ出身のハード・ロック・トリオ、バッジーのベーシスト。 バッジ―はメンバー交代を繰り返しながら、バークは亡くなるまでオリジナル・メンバーとして残っていた。 71歳。
1月18日 ディック・ハリガン
ブラス・ロックの草分けであるブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの創設メンバーの一人で、1968年から1971年まで在籍。 トロンボーンやキーボードを担当し、作曲でも大きな貢献をしている。 BS&T脱退後は作曲活動を中心に活躍していた。 ローマにて78歳で「自然死」したと伝えられている。
1月20日 ミートローフ
60年に渡るキャリアで多くのヒット・アルバムをとばした、テキサス出身のボーカリスト。 映画「ロッキー・ホラー・ショー」での怪演でも有名。 トッド・ラングレンのプロデュースによるソロ・アルバムは、長期間にわたってチャート入りしていた。 死因はコロナ感染によるものと伝えられている。 74歳だった。
2月9日 イアン・マクドナルド
キング・クリムゾンやフォリナーの創設メンバーとして知られており、キング・クリムゾンではフルート、サックス、メロトロンなどのマルチ・プレイヤーとして才能を発揮した。 ダリル・ウェイやスティーヴ・ハケットのバンドにも参加しており、プログレ界に大きな軌跡を残した。 癌で亡くなった。享年75歳。
2月19日 ゲイリー・ブルッカー
ボビー・ハリスンに続き、プロコル・ハルムの創設メンバーであるゲイリー・ブルッカーも亡くなってしまった。 大ヒット曲「青い影」ではピアノとリード・ボーカルを担当しており、バンドの主宰者でもあった。 76歳で、癌だった。
3月25日 テイラー・ホーキンズ
テイラー・ホーキンズの突然の死は、ロック界に大きな衝撃をもたらした。 フー・ファイターズのツアー中、コロンビアのボゴタのホテルで亡くなっているのが発見された。 薬物の過剰摂取が原因とみられている。 フー・ファイターズは直ちにツアーを中止したが、ロンドンとロサンジェルスで大規模な追悼コンサートが開催され、多くのミュージシャンが参加した。 50歳はあまりにも若すぎた。
4月20日 アンドリュー・ウールフォーク
アース・ウィンド・アンド・ファイアーのトランぺッターで、1973年から1985年、1987年から1993年の黄金期に活躍した。 同僚のフィリップ・ベイリーがグラミー賞を受賞したソロ・アルバムにも参加している。 近年は長い闘病生活を送っていたと伝えられる。 71歳だった。
4月26日 クラウス・シュルツ
ジャーマン・クラウトロックの雄、タンジェリン・ドリームやアシュ・ラ・テンペルのメンバーで、74年の生涯で60枚以上のアルバムを残している。 2022年にリリースされたアルバム "Deus Arrakis" が遺作となった。 死因は公開されていない。
5月17日 ヴァンゲリス
ギリシャ出身のキーボード奏者。 プログレ・ファンなら誰しも、アフロディテス・チャイルド名義の「666」を知っているだろう。 イエスのジョン・アンダーソンとのコラボでも知られている。 79歳で心不全。
5月26日 アラン・ホワイト
キング・クリムゾンに加入するため脱退したビル・ブルフォードの後釜で、イエスに参加した。 ライブ・アルバムの名盤「イエスソングス」がイエスでの初の作品となった。 イエス以前にはセッション・ドラマーとして活躍しており、1969年のトロント・ロック・アンド・ロール・フェスティバルに、ジョン・レノンやエリック・クラプトンらと共にプラスチック・オノ・バンドとして出演した。 来日は2019年のイエスが最後となったが、この時既にリズムが揺れまくっていたので、体力が相当落ちていたのだろう。 死因は発表されていないが、72歳だった。
5月26日 アンディ・フレッチャー
80年代初頭のニュー・ウェーブ全盛期にデビューしたディペッシュ・モードでベースとキーボードを担当していた。 自宅で大動脈解離を発症して急逝したと伝えられている。 まだ60歳だった。
6月5日 アレック・ジョン・サッチ
ボン・ジョヴィの創設メンバーで、1994年の脱退までベースを担当していた。 アレックは1951年生まれで、1962年のジョン・ボン・ジョヴィや1958年のリッチー・サンボラらよりも一回り年長だった。 ボン・ジョヴィ脱退後はオートバイの販売など、音楽活動からは距離を置いていたという。 心不全で、享年70歳だった。
7月5日 マニー・チャールトン
スコットランド出身のハードロック・バンド、ナザレスのギタリスト。 1974年のアルバム "Hair of the Dog" で、ハードロック・バンドとしての名声を獲得した。 ナザレスは現在も続いているが、マニーは1990年に脱退している。 80歳だった。
7月15日 ポール・ライダー
80年代中盤のマンチェスター・ムーブメントの中心的なバンドであるハッピー・マンデーズのベーシスト。 死因は公開されていない。 まだ58歳であった。
8月8日 オリビア・ニュートン=ジョン
オーストラリア出身のイギリス人ポップ・シンガー。 女優としても知られており、1978年の「グリース」でジョン・トラボルタと共演している。 80年代から90年代にかけて多くのヒット曲を飛ばしており、なかでも1981年の "Physical" はビルボード10週連続1位のメガヒットとなった。 1992年に乳がんに罹患したことを公表し、長年の闘病生活を送っていた。 73歳だった。
10月28日 ジェリー・リー・ルイス
1950年代のロックンロールの始祖の一人で、"Whole Lotta Shakin' Goin' On" や "Great Balls of Fire" などのヒットで知られており、ジョニー・ウィンターなど多くのロッカーにカバーされている。 60年代後半にカントリーに転向し、さらに多くのヒット曲を飛ばした。 21世紀に入ってからも "Last Man Standing" や "Mean Old Man" といったアルバムをヒット・チャートに叩き込んだ。 2019年に脳卒中で倒れて療養生活を送っていたものの回復せず、87歳でなくなった。
11月8日 ダン・マッカファーティー
ナザレスは、マニー・チャールトンに続いて、ボーカルのダン・マッカファーティーまで失ってしまった。 ダンは体調を崩し、2013年に脱退していた。 享年76歳。 バンドとしてのナザレスは存続しているが、オリジナル・メンバーはベーシストのピート・アグニューだけになっている。
11月9日 ギャリー・ロバーツ
アイルランド出身のブームタウン・ラッツのギタリスト。 ボーカリストのボブ・ゲルドフがバンド・エイドやライブ・エイドで名声を集める中、バンドとしては停滞し、1986年に解散した。 2013年に再結成し、2020年には36年ぶりのアルバムを制作したものの、72歳で亡くなってしまった。
11月10日 ニック・ターナー
スペース・サイケ・ロックの草分けであるホークウィンドでのキャリアで知られている。 サイケなメイクを施して、サックスとフルートを演奏した。 ソロ・アルバムやゲスト参加したアルバムも数多く残している。 享年82歳。
11月11日 キース・レヴィン
ザ・クラッシュの創設メンバーにして、パブリック・イメージ・リミテッドのギタリスト。 特に "Metal Box" に代表される初期から中期のPILのアルバム制作に多大な貢献をしている。 PIL脱退後はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのプロデュースなどを行っており、2010年にジャー・ウーブルと共にPILに戻っていた。 肝臓癌の合併症で、65歳で亡くなった。
11月21日 ウィルコ・ジョンソン
2013年に膵臓癌を宣告され、10年にわたる闘病を続けてきたウィルコ・ジョンソンが、遂に力尽きてしまった。 闘病中にも関わらず来日を果たし、ライブも行っている。 ウィルコがギターを弾いていたドクター・フィールグッドはパブ・ロックの代表的なバンドで、日本のロック・シーンにも多大な影響を与えている。 75歳だった。
11月25日 アイリーン・キャラ
1983年の映画「フラッシュダンス」の主題歌である "Flashdance... What a Feeling" の大ヒットで知られている。 その後はほとんど音楽活動を行っていない。 享年63歳。
11月30日 クリスティン・マクヴィー
ブルース・ロックのチキン・シャックを経て、1970年にフリートウッド・マックに参加。 半世紀にわたるキャリアを誇る。 初期のフリートウッド・マックのブルース系アルバムの後、1976年にアルバム "Rumours" を大ヒットさせた。 晩年はソロ活動で活躍していたが、2022年11月に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。 79歳だった。
12月4日 マニュエル・ゲッチング
クラウス・シュルツに続いて、アシュ・ラ・テンペルの元メンバーであるマニュエル・ゲッチングが亡くなってしまった。 2000年にはクラウス・シュルツェとアシュ・ラ・テンペルを再結成していた。 享年70歳で、老衰とみられている。
12月6日 ジェット・ブラック
ジェット・ブラックは、ストラングラーズのオリジナル・ドラマーだった。 2020年にはキーボードのデイヴ・グリーンフィールドがコロナで亡くなっている。 パンクスとしては高齢なバンドで、ジェットは84歳だった。
12月16日 リック・アンダーソン
チューブスのベーシストで、創設者のひとり。 70年代のハチャメチャなショーで知られるところになった。 4月17日には、ステージ・アクトやボーカルを担当していたリ・スタイルスも72歳で亡くなっている。 死因は公開されていないが、75歳だった。
12月18日 マーティン・ダフィ
80年代から90年代にかけて活躍したプライマル・スクリームのキーボード。 マーティンはセカンド・アルバムから参加している。 夏のサマソニで来日したばかりだった。 まだ55歳のあまりにも早い死に、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
12月19日 テリ-・ホール
スペシャルズのリード・ボーカルとして、英スカ・シーンを牽引した。 スペシャルズを離れた後も、ファン・ボーイ・スリーなどで活躍していた。 享年63歳で、すい臓がんだった。
来年の今頃、どんな記事を書くことになるか、想像もしたくない。
それより、まず自分自身も、いつまでも爆音を楽しめるように、健康にだけは気を付けたい。
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2021年、キング・クリムゾンの来日を皮切りに、ようやくライブが再開になるかと思われたのもつかの間、コロナのオミクロン株の蔓延によって、再びライブ暗黒の闇に入ってしまった。
2022年になってからもこの状況は続き、前半の半年間はライブハウスでの興行に限定され、海外からの来日による大型のライブは夏になってようやく再開になった。 2022年の夏は、フジロックもサマーソニックもほぼ以前と変わらない形になった。 しかしウイルスの拡散を防ぐため、アルコール類の販売は行われなかった。 夏フェスの醍醐味は、朝からビールを飲んで、汗と埃でどろどろになりながら爆音を浴びるところにあるのだが、この状況下では仕方あるまい。 また本来なら2020年に予定されていたスティーヴ・ハケット、ゼブラヘッド、アヴリル・ラヴィーン、マイケル・シェンカー・グループなどが振替で来日してくれたのはたいへん嬉しい。 欲を言えば、同じように流れてしまったグリーン・デイやアイアン・メイデンなども改めて来日を企画してもらいたいところである。
3月3日(木) ブルーノート東京 渡辺香津美『JAZZ回帰プロジェクト』 featuring 則竹裕之&川村竜
2022年になって初めてのライブである。 この時点でオミクロン株の蔓延は収まっておらず、東京ではまだ毎日1万人以上の感染者が出ていた。 ブルーノートもキャパの3分の1程度の観客しか収容していない状態である。 興行としてはかなり厳しい収益だっただろう。 「ジャズ・トリオ」との名目だったが、渡辺香津美さんはトラ目のエレクトリック・ギターを終始爆音で弾き倒していた。 ご本人もでかい音を出したかったのだろう。
4月30日(土) ビルボード東京 野宮真紀「40th Anniversary Live」ゲスト:鈴木慶一、カジヒデキ
デビュー40周年記念ライブで、2年前に還暦記念ライブをやったとのことなので、もう62才か。 これも本来なら、2年前のビルボード横浜のオープニング・イベントで観るはずだったのが、コロナで流れてしまったものである。 ゲストは、デビュー当時のプロデューサーだった鈴木慶一さんと、カジヒデキさんで、ソロ、ポータブル・ロック、ピチカート・ファイブと、40年のキャリアを総括する楽しい選曲だった。 通常は撮影厳禁のビルボードだが、途中でスマホ・タイムとなり、この時だけは撮影し放題。 衣装も2回のお色直しで、元祖・おしゃれ系の面目躍如である。
7月8日(金) 川崎クラブチッタ スティーヴ・ハケット
2020年に来日する予定がコロナの影響でキャンセルになってしまい、2年超しでようやく来日が実現。 今回は全てジェネシス時代の曲で占められており、前半は "Seconds Out"、後半は "Selling England By The Pound" を再現するステージとなった。 スティーヴのギターは変わらず怪奇骨董なトーンであったが、タッピング奏法の元祖の一人と言われるように、"Supper's Ready" などでタッピングを披露していた。 さらにワーミー奏法も進化しており、ブラッド・ギルスばりのソロも聴くことができた。 アンコールはお約束の "Dancing on the Volcano" からの "Los Endos" で大団円である。
8月13日(土) ビルボード東京 ジェフ・バクスター featuring CJヴァンストン
コロナ第7波のピークに加え、台風が東京を直撃中という最悪の状況下でのライブである。 ギター、ベース、キーボード、ドラムという最小のユニットで、いきなり「メンバーのことを知っていたほうがいいだろ」とメンバー紹介から始まった。 ジェフの初のソロ・アルバム "Speed of Heat" の曲を中心に、"Ricki Don't Lose That Number" などスティーリー・ダンの曲もふんだんに演奏してくれた。 最後は "China Grove" のリフを弾き始めてすぐに演奏を止め、"Great song" とつぶやいたあと、例のリフを使わない超高速カントリーにアレンジして再開した。 ところで近年のジェフはミュージシャンというよりも、共和党員で米国防総省の軍事顧問として知られている。 そして、この日のストラップはすべて星条旗を模したものであった。 ここまでなら許容範囲であるが、アメリカでのライブ映像では南軍旗をデザインしたストラップを使っていることが確認できる。 この一線を越えたら、完全にアウトである。
8月20日(土) サマーソニック
実に3年ぶりのサマソニである。
毎年フジロックかサマソニは、どちらかに参加するようにしていたので、この3年は本当に長かった。 まず初日最初の目当ては初来日のリンダ・リンダズで、全てが初々しかった。 最後の曲はブルーハーツの「リンダ・リンダ」を演奏し、「日本でこの曲を演奏できるなんて」と感無量の様子だった。 演奏後は、同行したスタッフや両親たちに感謝の言葉を捧げていた。
マリン・スレージでは、初「来日」になるRina Sawayamaを観る。
本人自身がバイ・セクシャルであることを語り、同性婚を認めない日本をステージで大批判。 「音楽に政治を持ち込むな」バカに聞かせてやりたいものだ。 2023年には単独来日があるので、改めて観に行きたい。
続けてイタリア出身のハード・ロック、マネスキン。
とにかくかっこいい。 若手でかっこいいハード・ロック・バンドなんて、最近はそうそういない。
初日最後は、St Vincentで〆る。
ビザールなギターで、ソウルとノイズをミクスチャーさせたユニークなサウンドが心地よい。
初日は一日通してとても気持ちよく観戦を終えることができたが、ホテルでネットを見ているとクソのような話が流れてきた。
マキシマム・ザ・ホルモンとKing Gnuである。 特にホルモンが海外アーティストによる日本語でのMCを揶揄した言動は、ゼノフォビア、レイシズムでしかなく、擁護できる余地はまったくない。 リンダ・リンダズに土下座して謝罪しろ、バカ野郎。 二度と観るか。
8月21日(日) サマーソニック
サマソニ2日目は、まずはマリンでストラッツから。 彼らをサマソニで観るのは3回目となるが、いまだに単独ライブを観ることができていない。 2021年の来日がコロナで流れてしまったのが、たいへん惜しまれる。 ルークはフレディ・マーキュリーのような派手な衣装を封印したのか、全身ブラックで地味な衣装だったが、相変わらず痺れるハード・ロックを演奏してくれた。
マリンでそのままヤングブラッドを見てから、メッセ側に移動。
20年来ファンだったが、一度も見たことがなかったクーラ・シェイカーである。 2つ前のバンドから会場に潜入し、最前列を確保した。 直前に出演していた日本の女性シンガー Milet が「クーラ・シェイカーの大ファンだ」と言っていたが、なんとクーラ・シェイカーの演奏に飛び入りして "Govinda" を熱唱、共演。 こういうハプニングもフェスならではである。
8月26日(金) 有明アリーナ ビリー・アイリッシュ
たった一回だけの来日公演だが、運よくステージ正面のスタンド席を確保できた。 バッキングは、ギターとキーボードを担当する彼女の実兄と、ドラマーの二人だけである。 あとは映像効果と、MCで盛り上げる、設計しつくされたステージだった。 19時ぴったりに客電が落ちて開始され、90分ちょうどでアンコールもなしに終了。 公演回数といい、ちょっと物足りないのではないか。
9月8日(金) 川崎クラブチッタ キャラヴァン
50周年記念の来日とのこと。 オリジナル・メンバーはパイ・ヘイスティングスだけになってしまったが、キーボードのジェフリー・リチャードソンやバイオリンのヤン・シェルハースもバンドに参加して40年以上のキャリアになる。 70年代の名盤 "In the Land of Grey and Pink" や " For Girls Who Grow Plump in the Night" から最新アルバム "It's None Of Your Business" まで、3時間近くにわたってたっぷり演奏してくれた。 ステージは2部構成で、後半の頭では6名のバイオリンと2名のチェロから成る日本人女性のストリングス部隊が加わって大迫力の音であった。 カンタベリー・ミュージックのかなめであるディストーションのかかったオルガンも全開で、こんな音を2022年になって聴けるとは思わなかった。
9月23日(金) 横浜赤レンガ ODD BRICK
ODD BRICKは、いろんなジャンルが交錯しているフェスである。 私は最後のカマシ・ワシントンが目当てなので、ゆっくり出かけることにしたが、着いたタイミングで、普段は完全に守備範囲外の日韓混成ボーイズ・グループ "Treasure" を観てみた。 歌・ラップ・振り付けが、メンバーそれぞれの個性を計算して完璧に割り当てられており、ひと昔前のジャニーズ系の「全員でユニゾン」みたいな雑さとはまったく別の世界であった。 このジャンルが国や年齢を問わずに売れるのもむべなるかなである。 次はナイジェリア出身でイギリスで活躍しているラッパー、Little Simz。 途中でMacBookがトラブったのはラップ・チームとして致命的だが、MacBookを調整している間に、客のクラップだけでラップを続行したのはさすがである。 このあたりから始まった豪雨の中、カマシ・ワシントンがフルバンドで登場。 超絶カッコよいバンドで、やっぱり音楽はこうでなくてはいかんと勝手に納得する。 全員にきっちりソロ取らせていたし、バンドの運営としても完璧だった。 土砂降りの雨の中を立ちっぱなしで聴く価値は充分すぎた。
9月25日(日) 昭和女子大学人見記念講堂 Char x カルメン・マキ & OZ
どちらも50年にわたる経歴を誇るのに、対バンは初めてとのこと。 第一部はCharで、第二期Jeff Beck Groupを彷彿とさせる演奏を繰り広げた。 何の因縁か、ドラマーは元OZの古田たかしさん。 Charの後は、30分のインターバルをおいて、第二部のカルメン・マキ & OZである。 例によっていきなり「崩壊の前日」で爆音全開。 単独ライブでは必ず設けるアコースティック・コーナーはなく、すべてハード・ロックで押し通した。 デタラメな「国葬」を2日後に控えた日程で、「午前1時のスケッチ」のエンディングから「国葬反対」シュプレヒコールに突入したのはさすがである。 最後はCharと古田さんが出てきて、OZの新旧ドラマーをバックに、春日さんとCharの掛け合いに続けて、ジェファーソン・エアプレインの "Somebody to Love" のカバーを演奏。 大団円である。
10月3日(月) リキッドルーム シャーラタンズ
通算16回目、2018年のサマソニ以来の来日である。 ミドル・テンポのダンス・チューンで客を煽りまくり。 ボーカルのティム・バージェスはステージ上から客側の動画や写真を撮って、リアルタイムでツイートしていた。 真正のツイ廃ミュージシャンだった。
10月10日(月) ビルボード東京 アル・ディ・メオラ
パーカッションとタブラを従えた、最小限のアコースティック・トリオでの演奏。 一曲ごとにギターを取り換えるギタリストが多い中、一本のアコギだけで最後まで通した。 独特のアルペジオに続けて、超高速のギターソロとタブラの掛け合いは圧巻である。 ビルボードらしからず演奏が90分に及んだため、次の部の客入りの都合上、アンコールが無くなってしまったのが残念。
10月25日(日) 昭和女子大学人見記念講堂 ナイト・レンジャー
ナイト・レンジャーが40周年記念ということで、3年ぶりに来日した。 久しぶりのメジャーなバンドの単独ライブである。 10月22日は東京で二日目のライブになるが、ジャック・ブレイズのMCによると日本での78回目のステージとのこと。 "Rock in America" で始まり、"Don't Tell Me You Love Me" "Sister Christian" で〆る大ヒット曲のパレード。 2021年にリリースされた久しぶりのニューアルバム "Atbpo" からも "Breakout" が演奏され、間にはアコースティック・パートも挟まれた。 リード・ボーカルがベースのジャック・ブレイズだけでなく、ドラマーのケリー・ケイギーが執れることが音の厚みに貢献している。 そしてケリーは何回もドラム・キットから離れて、ステージ・センターで歌っていた。 アンコールの "Sister Christian" は、ジャック・ブレイズの「いったん引っ込んで拍手で出てくるより、このままでいいだろ」とのMCで、"Don't Tell Me You Love Me" からほぼ続けて突入。 文句なしの素晴らしいライブだった。 しかしナイト・レンジャーといえば必ず人見記念講堂だが、何か都条例でもあるんだろうか。
10月28日(金) 豊洲PIT ゼブラヘッド
ゼブラヘッドも、もともとは2020年6月に予定されていたのだが、コロナの影響で2年半ぶりの振り替えとなった。 2019年のサマソニ以来、3年ぶりである。 ポップで爆速のパンクを2時間にわたって繰り広げてくれた。 客席を煽っていっしょに「ファック!」と叫ばせるなど、相変わらず最高の下品さである。 2019年のサマソニでは「チンコデカイ」と謎の日本語を連発していたが、今回はなぜか「チンコチイサイ」に替わっていた。 時節柄、会場側は「発声禁止」「合唱禁止」を訴えていたが、バンド側のスタッフがステージでサークルピットをやったり、ダイブをするものだから収拾がつかない。 最後は客席側からもサーフィン大会になってしまった。
11月5日(土) さいたまスーパーアリーナ ガンズ・ン・ローゼズ
ガンズ・ン・ローゼズのおよそ6年ぶりの来日が実現した。 会場は前回と同じく、さいたまスーパーアリーナである。 フロントのオリジナル・メンバーのアクセル、スラッシュ、ダフは健在。 アクセルは前回の来日時より若干やせたかもしれない。 ステージは "It's So Easy" でいきなり爆発した。
"Welcome to the Jungle" や "Sweet Child o' Mine" などヒット曲はほぼ全て網羅して、セットリストはなんと3時間近くも繰り広げられた。
なお、途中の "Civil War" ではウクライナ旗が映し出され、ステージの両端にもウクライナ旗が設置されていた。 アンコールでは "Coma" に続いて、スラッシュ、ダフ、リチャードが着席して並んでのアコースティック・タイムでビートルズの "Blackbird" を演奏。 続けてアコースティックで "Patience" を演奏し、最後はお約束の "Paradise City" で大団円である。
11月9日(水) 東京ガーデンシアター アヴリル・ラヴィーン
アヴリル・ラヴィーンも2020年5月に予定されていたのだが、コロナの影響で二回にわたって延期され、8年ぶりの来日がようやく実現した。 来日が延期になった間にニューアルバムがリリースされたので、むしろタイミングしては良かったのかもしれない。 ツアーのタイトルもニューアルバムに合わせて "Love Sux" となっていた。 しかし、演奏の本編でちょうど60分、アンコールまで加えても70分程度である。 これだけ短いのは、武道館でのリアム・ギャラガー以来ではないか。 直前に観たガンズが長かっただけに対照的だった。 もう20年選手なんだし、曲がないということはないでしょう。
11月16日(水) Zepp Haneda クルアンビン
3年ぶりの来日。 初来日の際はチケットが取れず、2回目はフジロックだったので行けず、3度目の正直でようやく観ることができた。 アンコールも含めるとおよそ1時間半のステージだったが、ギターを持ち替えることもなく、オリジナリティあふれる曲を多数熱演してくれた。 途中でトム・トム・クラブの "Genius of Love" や坂本九の "Sukiyaki" などを含めて10分以上にわたるメドレーも披露。 小節の頭でローラが膝を落とす仕草も、生で見ることができたし、言うことなし。 やはりギター・トリオは正義である。
11月22日(日) 中野サンプラザ マイケル・シェンカー・グループ
マイケル・シェンカー・グループの来日も本来は2020年に予定されていたが、コロナの影響で延期になり、2年越しに実現したものである。 東京の会場は例によってサンプラザだが、これも何か都条例でもあるのだろうか。 19時ぴったりに客電が落ち、AC/DCの"Highway to Hell" が爆音で流れる中、メンバーが登場し、"Into the Arena" で開幕になった。 本編とアンコールのような形も執らず、90分一本勝負のライブである。 曲目はMSGというより、もはやUFOの"Strangers in the Night" の再現ライブのような状態で、"Rock Bottom" や "Only You Can Rock Me" などを堪能する。 気難しいことで知られるマイケルは、終始にこやかで上機嫌だった。 MSGとしての来日は初となるロニー・ロメロのボーカルは高音域が伸び、バンドにぴったりであった。
11月30日(水) 東京ドーム キッス
2019年以来、3年ぶりの来日である。 2019年は日本を縦断するツアーだったが、今回は東京ドームでの一回きりのライブとなった。 19時を10分ほど過ぎて客電が落ちると、レッド・ツェッペリンの"Rock'n Roll" が爆音で流れる間にメンバーが登場し、"Detroit Rock City" で始まった。 セットリストは2019年の来日のときとほぼ同じだったが、ライブでは珍しい "Makin' Love" が披露されたのが嬉しい。 "Lick It Up" で The Whoの "Won't Get Fooled Again" を挟み込んで大サービス。 "I Was Made for Lovin' You" では、ポール・スタンレーがアリーナの真ん中まで飛ぶお約束の演出である。 そして最後は、これまたお約束の "Rock and Roll All Nite"。 すべてネタがわかったうえでの予定調和だが、これでよいのだ。
12月2日(金) EX THEATER ROPPONGI チープ・トリック
リック・ニールセンが病気になってしまい、直前で延期。 残念。
12月4日(日) ビルボード東京 ボニー・ピンク
20年以上聴いていたのに、ライブを観るのは初めてである。
セットリストは、ファースト・アルバムの曲から、2022年に放ったNHKテレビ「みんなのうた」の「宝さがし」や、映画「for you 人のために」主題歌「エレジー」まで、新旧の楽曲から厳選されたものだった。 バック・バンドはバンマスの鈴木正人氏やソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉氏らベテラン揃いで、安定した演奏であった。 なお陣取ったのが最前列中央の席だったのだが、あまりにも近すぎてバンドどころかご本人すらよく見えず、ご本人のブーツしか見えない状態であった。 ステージに近ければよいというものでもない。
既に2023年も、年初から多くのライブが予定されている。
特に目立つのがメタル勢で、ナイト・ウィッシュ、アーチ・エネミー、メガデスに加えて、3月には久しぶりのLoudparkの開催もアナウンスされた。 この他、ベテランではスティング、ディープ・パープル、ドゥービー・ブラザース、レッド・ホット・チリ・ペッパーズも予定されている。 さらに2022年のサマソニで来日してくれたリナ・サワヤマやクーラ・シェイカーの再来日も決まった。 時間と財布が許す限り、片っ端から観に行くしかない。 Photo by Alexander Shatov on Unsplash 10月15日の午後、ツイッターの二要素認証のための携帯の番号を変更したらログインできなくなってしまった。 メールアドレス、電話番号、ユーザーID、パスワードを入力するところまでは通過するものの、ここでスマホのSMSに届くはずの認証コードが来ない。 これは困ったことである。 「ツイッター 二要素認証 できない」でググってみると、解決策を解説したいくつかのサイトが表示された。 一例として、KDDIのサイトでは以下のような原因が列挙されている。 電話番号を誤って入力した その可能性は否定できないが、今となってはどうにもならない。 キャリアでエラーが発生している 他のサービスの二要素認証は通るので、これは大丈夫でしょう。 Twitterで問題が発生している これはユーザー側ではどうしようもない。 国際SMSとナンバーポータビリティーの相性問題が起きている 他のサービスでも「+81」で始まる番号を登録しているのに、問題は発生していない。 電波状況が悪い 4GもWifiもバリバリ繋がっているので、あり得ない。 そして、同じサイトで、対処法もガイドしてくれているのだが、 携帯電話番号やスマートフォンの状態を確認する ツイッター以外はまったく問題ありません。 受信拒否設定をチェックして解除する チェックしたところ、特に着許否設定はしておらず。 とりあえず待ってみる 30分待ってもダメでした。 バックアップコードを使う 二要素認証を設定する際に、バックアップコードをメモ書きしておかなかった。 これは私の大失態。 認証アプリを活用する 認証アプリとの連携も、二要素認証の設定時にやっておく必要があったので、今更どうにもならない。 そうなると、もはやツイッターのサポートに解決を依頼するしかない。 サポートへ連絡を送ると、30分くらいで、次のようなメールが着た。 早さは中々である。 しかし、ここからは英語。 Your phone number (+8180xxxxxxxx) has been added to your account @JH1LPZ_DXCC. 番号を追加してくれたので、解消するはずである。 しかし、引き続き認証コードは飛んでこない。 そして、追加のメールが来た。 When you enrolled in login verification from your device, did you generate a backup code? すみません。バックアップコードを記録してなかったんです。 同じメールで、 If you’ve tried the above options and still need help accessing your account, please reply to this email for further assistance. とのことなので、 I've changed my phone for two-factor authentication と、状況を整理して送信。 数日経った後、18日の朝、進展があった。 ツイッターから次のようなメールが着たのである Let’s try turning off login verification to help you regain access to your account. 「いったん二要所認証を解除しよう。本人確認がしたいから、ログインのプロセスを実効してみてくれ。こちらに認証コードが飛んでくれば、あんたが本人であることが証明される。」といったところか。 早速、ログインの手順を一通り流して、その旨を知らせたことろ、1時間半くらいで「二要素認証を外したから、ログインして再設定してみてくれ」との連絡があり、無事ログイン可能になった。 私自身、グローバルなサポートセンターのマネジメントの仕事をしたことがあるので、無償サービスで3日目に解決して、チケットをクローズできたのは、一般に早いほうだと評価することができる。
願わくば、凍結やロックに対する異議申し立てのプロセスも、もう少し迅速に対応してもらえないだろうか。 Photo by Egor Myznik on Unsplash 安倍晋三が銃撃されて死亡してから一か月以上が経ち、この間に当の安倍晋三をはじめ、萩生田光一や山際大志郎など数多くの自民党議員と統一教会との癒着が明らかになった。 首相・岸田はこのイメージを払拭すべく内閣改造を図ったが、結局、改造後の閣僚の大多数が統一教会と何等かの関係を持っていたという体たらくである。 与党である自民党と反社会的組織との濃厚な関係は、当然ながら徹底的に追及されなければならないし、また今後も追及は続くであろう。 一方、政権与党に対して寄生虫のようなポジションを取り続ける維新もまた、統一教会とのベタベタな関係が判明している。 ここでは、報道で明らかになった維新と統一教会の関係を整理しておきたい。 維新は、7月下旬に国会議員62人を対象に調査を行い、その結果、13人が統一教会やその関連団体と関係があったことを発表した。 「世界平和統一家庭連合」、旧統一教会をめぐり、日本維新の会は国会議員62人を対象に行った調査の結果、関連団体などと何らかの関係があったことが分かった13人の氏名を公表しました。 FLASHによると、13人の名前と当時の役職、および統一教会との関係は次の通り。 【日本維新の会、旧統一教会との関係者リスト】 日本維新の会・共同代表の馬場伸幸氏が、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の新聞「世界日報」のインタビューに応じたことをハフポスト日本版に対して認めた。 日本維新の会の国会議員13人が、反社会的活動で問題となってきた旧統一協会(世界平和統一家庭連合)と何らかのかかわりを持っていたことが30日、藤田文武幹事長の記者会見で明らかになりました。 柴田参議院議員は、みんなの党所属だった2012年2月、オープンカレッジで講演。さらに、日本維新の会に所属を移していた2015年、オープンカレッジに祝電を送っていました。 さらに、大阪維新でも、首長や地方議員ら16人が統一教会と接点を持っていたことを発表している。 大阪維新16人旧統一教会と接点 会合参加や祝電、関係公表 こうした自主的な調査の後も、維新の国会議員である石井苗子や松沢成文、音喜多駿らと統一教会の癒着が続々と明らかになっている。 日本維新の会は5日、石井苗子参院議員(比例)が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体のイベントに参加していたと発表した。 旧統一教会の「関連団体」とのかかわりについては、石井苗子参議院議員、小野泰輔衆議院議員が関連団体イベントに参加したことがありました。 日本維新の会は8日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係をめぐり、松沢成文参院議員が関連団体の会合に出席し、祝電を送るなどしていたと発表した。 さらに地方議員でも、統一教会との濃厚な関係が次々と発覚している。 堺市議の池田かつし氏は2014年12月6日、SNSに《馬場伸幸衆議院議員候補とともにWFWPチャリティークリスマスパーティーに出席しました》と書き込み、男性ががマイクを握り、挨拶している写真を添付していた。 大阪市議の大内啓治は、過去に信者であったことを申告していなかった。 大阪維新の会の大内啓治大阪市議(71)が、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体の会合に参加していたのに、内部調査に対し申告していなかったことが19日、分かった。 維新の会関係者が語る。 「党内ではいまだに『ガチ信者』という認識です。」 こうした中、参院議員の鈴木宗男は開き直る始末である。 日本維新の会の鈴木宗男参院議員(74)「旧統一教会に加藤氏が祝電を打ったことを立憲民主党、共産党の議員があたかも問題があることのように質問しているが、お門違いではないか」 まったくどうしようもない。
こうした反社とベタベタな連中は公職に就く資格はない。 直ちに辞職し、公民権を剥奪されるべきであろう。
Photo by engin akyurt on Unsplash
【注意】引用したツイートには、激しい差別表現が含まれます。
7月8日、元首相の安倍晋三が銃撃され、ほぼ即死状態で亡くなった。 その場で逮捕された銃撃犯は、世界平和統一家庭連合(いわゆる旧統一教会)に家庭を破壊され、その恨みから、教会の広告塔を演じていた安倍を襲撃したと伝えられている。 犯行に至る動機や心理は今後の捜査や公判を待つしかないが、実は本人である可能性が高いツイッター・アカウントが残されていた。 ツイートは襲撃の3年弱前に遡る2019年10月に始まり、襲撃の前週の2022年6月30日を最後に途絶えている。 このアカウントが果たして本人のものであるか、断定するには、書き込みのIPを取得して照合しなければならない。 しかし、報道されている内容を裏付けるようなツイートをいくつも残しているのも事実である。
安倍襲撃を予告するかのような書き込みもある。
そして、心の底から呪うかのような旧統一教会の批判。
ところが、安倍晋三に対しては、全面否定するわけでもなく、政治的な姿勢を評価するような微妙な距離感をとっている。
いや、むしろ安倍政権の政治姿勢に極めて近いと言うべきかもしれない。
吐き気を催すような嫌韓ツイートの数々。
旧統一教会の被害者であったことを差し引いても、こうした嫌韓の論調は異常なレベルである。
彼の差別的な姿勢は、先住少数民族としてのアイヌの権利否定や、反フェミニズムのツイートにも表れている。 パワハラを訴える人も全面否定。
極めつけは、彼の憲法観である。
どう見ても、自民党と完全に一致。
もちろん、集団的自衛権や日米安保条約にも大賛成である。
このツイッター・アカウントの人物は、政治的には決して「反安倍」ではなかった。
むしろ安倍政権や自民党に極めて近い考えの持ち主だったと言えよう。 Photo by Kilian Karger on Unsplash 5月31日、札幌地裁が北海道電力に対し、泊原発の1~3号機の運転差し止めを命じた。 判決の核は「津波防護施設が存在せず、津波に対する安全基準を満たしていない」という事実であり、北海道電力の怠慢でしかない。 北海道電力は、原子力規制委員会が要請した資料もまともに提出せず、更田委員長に「十分な対応がみられず数年が経った」と指摘されるほどの体たらくである。 札幌地裁の判決は、きわめて当然の判断と言えよう。 ところで、この判決直後、ネトウヨたちが一斉に判決を揶揄するツイートをし始めたのだが、何かおかしい。 よく見ると「泊(とまり)」ではなく「柏(かしわ)」原発になっているのである。 それも一人や二人ではなかった。 確かに原発の立地は読み方が難しいものが多い。 東通(ひがしどおり)、女川(おながわ)、柏崎刈羽(かしわざきかりわ)、志賀(しか)、大飯(おおい)、川内(せんだい)あたりは、ネトウヨの頭では読めないのも無理からぬ話である。 しかし読み方はともかく、どうやったら「泊(とまり)原発」を「柏(かしわ)原発」と誤記できるのだろう。 かな入力の誤変換はあり得ない。 考えられるのは
原発の話題で揶揄するにしても、あまりにも愚かである。 なお泊原発は2012年5月5日に停止し、既に10年以上稼働していない。 電力を供給していないのだから、ネトウヨたちの「柏(かしわ)原発を停めたらクーラーが停まる」という戯言は、完全に言いがかりにすぎない。 こういう底辺ネトウヨたちがバカなのは既定の事実であるが、論客を自称する人物まで「柏(かしわ)原発」をやらかしているのには驚かされる。 この御仁も10年以上にわたって原発問題に関する嫌味を垂れ流し続けているわけだが、「泊(とまり)」を「柏(かしわ)」と思い違いしたままという程度の認識であるのが露呈してしまった。 興味がないなら、せめて黙っていりゃいいのにね。 なお、元祖「柏(かしわ)」は、こちらの方の2018年のツイート(現在はアカウント剥奪)のようである。 さもありなん。 このように、愛国者ぶるくせにネトウヨが日本語をまともに使えない現象に対して、何らかの名称を付けることはできないだろうか。 とりあえず「かしわ問題」とでもしておけばいいかもしれないが、次の事例も捨てがたい。 大阪知事・松井の発言である。 「更迭」ではなく「更送」。
これも「こうてつ」との読み方を知っていれば、誤変換しようがないものである。 むしろどうしたら「更送」と打ち込めたのか、教えてほしいものだ。 「更に」と打ち込んでから「送る」と加えてカナを削ったんでしょうか。 頭の悪い人たちの行動を理解するのは、本当に難しい。 ここ数年、渋谷川など、暗渠となって都内を流れる川が話題になっている。 最近では週刊文春の記事がていねいに取材されており、たいへん興味深かった。 都内の暗渠は有名だが、多摩地区の暗渠なんか誰も知らないし、興味もないだろう。 しかし我が地元にも恩田川、そして鶴見川へ連なる支流が暗渠となって存在しているのである。 田園都市線の「すずかけ台」駅と「南町田グランベリーパーク」駅の間に、暗渠の出発地点となる源流がある。 まさに田園都市線の土手の元である。 この付近は宅地造成が始まる1970年ころまで一面の田んぼだった所だ。 暗渠になる以前の小川にはザリガニやドジョウが豊富に生息しており、春にはカエルの産卵地になっていたことを記憶している。 ウナギが採れることもあったらしい。 源流から200mほど。 親子連れでにぎわうつばき公園の周囲を直角に曲がり、暗渠が続く。 つばき公園からさらに徒歩数分で、やなぎ公園に到着。 ここでは数メートルの区間だけ、水の流れが現れる。 きれいな水だ。 やなぎ公園を抜けると、再び暗渠となり、住宅の間を潜るように流れが続く。 そして、どうやらこの先が行き止まりになっているもよう。 近づいてみると、ここから先は入れないようになっていた。 行き止まりの反対側。 およそ50mくらいの区間が封鎖されていた。 防犯上、人の出入りがないほうが良いのだろう。 ここからまた公道に沿って延々と暗渠が続く。 このあたり一帯も、以前は田んぼだった。 そして、またしても行き止まり。 しかし簡単な柵と標識が設置されているだけで、徒歩の通行は禁じられていない様子。 この真横から杉山神社の参道が見える。 普段は実に静かだが、元旦の初もうでには30分待ちになるくらい人が集まる場所である。 さらに100mほど進むと、暗渠は五差路の地下を斜めに突っ切って、姿を現すようになる。 暗渠ではなく、公道と住宅の間を小川となって流れる。 本来の姿である 川沿いの住宅は、道路まで橋をかける仕掛け。 道の両側は桜並木になっており、春先には数kmにわたって桜のトンネルが出現する、素晴らしい所である。 水辺に根付いて、桜の成長にもよいのだろう。 横浜線の線路とぶつかるところは、トンネルとなっていた。 長年住んでいても気にしたことすらなかったが、こんな仕組みになっていたのか。 トンネルを超えると、別の支流と合流し、立派な川らしくなる。 そして恩田川へ流れ込む。 恩田川の本流も、きれいな水流だ。 恩田川も、川の両岸が桜で埋め尽くされており、桜の季節は圧巻の風景となる。
毎年、多くの花見客であふれる、地域有数の桜の名所である。 恩田川を下ると鶴見川に合流し、川崎で東京湾へ流れ込む。 暗渠でなければ、今でも生き物たちが息づいていたかもしれない。
Photo by Chris Niwore on Unsplash
ロバート・プラントの交通事故によって1975年のツアー中止を余儀なくされたレッド・ツェッペリンは、持て余した時間でレコーディングに集中し、翌1976年3月、世紀の名盤 "Presence" をリリースした。
そして1977年に入り、一年半ぶりに全米ツアーを再開する。 しかし "Presence" の曲も引き下げてのツアーにもかかわらず、この年も幸運に恵まれなかった。 4月19日、シンシナティのリバー・フロント・コロシアムでのライブでは、チケットが完売となり、ゲートを強行突破しようとした70名が逮捕された。 6月3日のタンパ・スタジアムでのライブは、激しい雷雨に見舞われて短縮され、暴動が発生して、またも多くの逮捕者を出す結果となった。 7月23日、カリフォルニア州オークランドでは、プロモーターのスタッフが激しく暴行を受けるという事件で、バンドのスタッフと共に、ジョン・ボーナムも逮捕される事態になっている。 そして7月30日、フレンチクォーターのホテルにチェックインした彼らを待っていたのは、ロバートの息子、カラックがウイルス性の疾患で急死したとの知らせだった。 ツアーはまたしても中止となり、さらに2年後の1979年のネブワース出演の直後にジョン・ボーナムが亡くなってしまう。 こうして、この年以降、レッド・ツェッペリンのツアーが再開されることはなくなってしまった。 1977年のツアーでの演奏は、様々な事件に加えて、ロバートやジミーの体調が芳しくないこともあり、今ひとつパッとしない。 とは言え、ツアーを再開したばかりの4月には2時間ほどの長さだったセットリストは、ツアーを続けるにつれてどんどん長くなり、7月には3時間半を超えるようになる。 ブート音源だけでなく、動画が残されているのも1977年の特徴である。 特に最終に近い7月17日のシアトルでのライブは、プロショットのマルチカメラによる動画として、奇跡的に丸ごと記録されている。 また、6月23日のカリフォルニア州イングルウッドでのライブでは、キース・ムーンがステージに乱入し、ロバートがドラム・キットの中へ避難する姿を観ることができる。 なお、今回の1977年のツアーの情報も、ledzeppelin.com を参照させていただいた。 この他、1969年から1975年までのライブと1979年の音源は、既に下記のように整理してあるので、併せて参照いただきたい。
1977年の全米ツアーは、オクラホマ州のオクラホマ・シティで始まった。
初日の4月1日の音源は見つけることができなかったが、ツアー2日めとなる4月3日分はいくつかの音源が残っている。
4月6日から10日までは、シカゴ・スタジアム。
シカゴ2日目の4月7日。
4月9日のシカゴ。
シカゴ最終日の4月10日。
4月19日と20日はオハイオ州シンシナティ。
4月20日、シンシナティ2日目。
その後、南部へ移動する。
4月23日、ジョージア州アトランタ。
4月25日、ケンタッキー州ルイーズヴィル。
4月27日と28日は再びオハイオ州へ戻る。
クリーブランドのリッチフィールド・コロシアム。
4月28日、クリーブランド2日目。
4月30日、ミネソタ州ポンティアック。
5月前半は休暇を取り、中盤から中南部を廻る。
5月18日、アラバマ州バーミンガム。
5月21日、テキサス州ヒューストン。
5月22日、テキサス州フォトワース。
東海岸へ移動し、メリーランド州ランドオーバーでは5月25日から3日間ライブが行われた。
ランドオーバー、5月28日分。
ランドオーバー、5月30日分。
そして6月7日から、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで6晩、ライブが続けられた。
6月8日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月11日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月13日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月14日、マディソン・スクェア・ガーデン。
その後、西海岸でのツアーとなる。
6月19日のサン・ディエゴ。
6月21日からカリフォルニア州イングルウッドでは6晩ものライブが行われた。
6月22日 、イングルウッド。
6月23日、イングルウッド。
6月23日のライブでは、キース・ムーンがステージに乱入する一部始終が動画として残されている。
6月25日、イングルウッド。
6月26日、イングルウッド。
6月27日、イングルウッドでの最終日。
7月17日のシアトルでのライブは、3時間半にわたる動画として記録されている。
7月20日はアリゾナ州テンプ。
7月23日、レッド・ツェッペリンのツアーの最終地となったカリフォルニア州オークランド。
結果的に最終日となってしまった7月24日のオークランドでのライブは "No Quarter" が残されていた。
そしてこの直後、ロバート・プラントの息子が亡くなるという悲劇が到来してしまう。
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