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毎年毎年、ミュージシャンの訃報のリストが長くなってしまう。
哀しいことである。 2023年の特徴は、ジェフ・ベックやティナ・ターナーといったベテラン勢のみならず、ザ・ポップ・グループやキリング・ジョークのようなポスト・パンクの連中まで亡くなり始めたことだ。 それもまだ50代、60代である。 日本でも高橋幸宏さんに始まり、坂本龍一さんやHeathまで亡くなってしまった。 あまりにも早すぎるとしか言いようがない。(以下、敬称略)
1月1日 フレッド・ホワイト
いきなり元旦からの訃報である。 兄のモーリスやヴァーダインと共にアース・ウィンド&ファイアーを結成し、フレッドはドラムを担当していた。 絶頂期には "September" "Boogie Wonderland" "Let's Groove" など数々のヒット曲を叩き出している。 死因は公表されていないが、まだ67歳だった。
1月10日 ジェフ・ベック
今更こんなところで紹介するまでもない、ギターの巨人。 正月早々に大きな衝撃を受けた訃報だった。 個人的にはエディ・ヴァン・ヘイレンの訃報以来のショックである。 近年もフィンガー・ピッキングにアームのトレモロを組み合わせた独特な奏法など、最後まで進化を停めなかった。 2017年に東京国際フォーラムで最後の来日を観ることができたのは、生涯忘れないだろう。 細菌性髄膜炎の悪化で、享年78歳。
1月11日 高橋幸宏
2023年は、高橋幸宏さんも坂本龍一さんも亡くなってしまった。 いったい何ということだ。 日本の音楽シーンの損失は計り知れない。
1月12日 リサ・マリー・プレスリー
エルヴィス・プレスリーの娘で、マイケル・ジャクソンやニコラス・ケイジらとの結婚でも知られている。 心臓発作に小腸閉塞の合併症が致命傷となった。 まだ54歳の若さだった。
1月12日 ロビー・バックマン
バックマン・ターナー・オーヴァードライブのオリジナル・メンバーで、ロビーの死後わずか3か月後には弟のティムも亡くなってしまう。 享年69歳で、死因は公表されていない。
1月19日 デヴィッド・クロスビー
CSN&Yの一角であるデヴィッド・クロスビーは、4人の中で最も早く亡くなってしまった。 死因はコロナの急変と言われており、81歳だった。 ニール・ヤングを除くCSNとしての活動も2016年を最後に空中分解してしまったが、デヴィッドの死によって再結成の機会は永遠に無くなった。
1月28日 トム・ヴァーレイン
ニューヨーク・パンク・シーンを代表するテレヴィジョンのギタリスト。 前立腺がんで、73歳だった。 初期パンク・シーンの人たちも、多くがもう70代を迎えている。
2月8日 バート・バカラック
50年代から多くのポップ・ソングを生み出した稀代の作曲家。 カーペンターズやディオンヌ・ワーウィックなどが彼の楽曲を取り上げていることでも知られている。 ビルボード横浜のオープニングを記念して来日する予定だったのが、コロナ蔓延で流れてしまったのが惜しまれる。 94歳だった。
3月2日 ウェイン・ショーター
60年代のマイルス・デイヴィスのクインテットを経て、ジョー・ザビヌルらとウェザー・リポートを結成したサックス奏者。 1986年にウェザー・リポートが解散してからは、アコースティックに回帰した自身のカルテットで活躍していた。 享年89歳。
3月5日 ゲイリー・ロッシントン
レーナード・スキナードの最後のオリジナル・メンバー。 1977年の航空機事故で大半のメンバーを失った後も、ジョニー・ヴァン・ザントらとレーナード・スキナードとして活動を続けてきた。 ゲイリーの死によってオリジナル・メンバーは1人もいなくなってしまったが、バンドは現在もレーナード・スキナードとしてツアーを続けている。 71歳だった。
3月9日 ロビン・ラムリー
フィル・コリンズらを擁したジャズ・ロック・バンドのブランドXのオリジナル・メンバーの一人で、キーボードを担当していた。 メンバーの入れ替わりが激しかったブランドXのほぼ全てのアルバムに参加している。 ブランドX参加の前には、デヴィッド・ボウイのバッキングを務めたこともあった。 75歳で、心不全だった。
3月13日 ジム・ゴードン
デラニー&ボニーでの同僚だったエリック・クラプトンやカール・レイドル、ボビー・ウィットロックと、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成したことで知られている。 1983年に母親を殺害して収監され、生涯釈放されることなく、獄中で亡くなった。
3月14日 ボビー・コールドウェル
いわゆるAORを代表するシンガーの一人。 晩年は毎年のように来日し、ビルボードでライブを行っていた。 抗生物質の副作用など、長い闘病生活の後の死であった。 享年71歳。
3月28日 坂本龍一
今更言うまでもなく、日本を代表するミュージシャンだった。 高橋幸宏さんを追いかけるように、癌で亡くなってしまった。 まだ71歳で、失われた才能はあまりにも大きすぎる。
4月7日 イアン・ベアンソン
アラン・パーソンズ・プロジェクトのギタリスト。 アラン・パーソンズ・プロジェクトは、アラン・パーソンズとエリック・ウールソンによるユニットだが、イアン・ベアンソンは "Ammonia Avenue" などのヒット作を含む殆どのアルバム制作に参加していた。 またケイト・ブッシュの "The Kick Inside" や "Lionheart" などにも参加している。 69歳で認知症を悪化させて亡くなった。
4月21日 マーク・スチュワート
ポスト・パンクのザ・ポップ・グループの中心メンバーで、ボーカルを執っていた。 62歳で亡くなったが、ザ・ポップ・グループを結成した1977年ではまだ17歳であった。 死因は公表されていない。
4月28日 ティム・バックマン
兄のランディやロビーと共に、バックマン・ターナー・オーヴァードライヴのオリジナル・メンバーだった。 1974年に脱退したが、1983年に再加入している。 癌を患っており、兄のロビーを追うように71歳で亡くなってしまった。
5月11日 フランシス・モンクマン
カーヴド・エアーや801などプログレ界で名をはせたキーボード奏者。 70年代後半には、フュージョン系のスカイを結成し、特に日本では評価を受けていた。 73歳で、癌で亡くなった。
5月19日 アンディ・ルーク
80年代に活躍したザ・スミスのベーシスト。 4枚のアルバムを残して1987年にザ・スミスが解散した後は、キリング・ジョークやムーンドッグ・ワンなどで活動していた。 膵臓癌で、まだ59歳だった。
5月24日 ティナ・ターナー
1950年代から活躍し、「ロックンロールの女王」と呼ばれていた。 アルバムやシングルの売上は2億枚を超え、ライブのチケットの枚数も世界最多と観られている。 晩年は腎不全や癌、脳卒中など複数の疾患を患っていたが、死因は公表されていない。
6月20日 ジョン・ワディントン
ザ・ポップ・グループのオリジナル・メンバーの一人で、初期のアルバム二枚でギターを弾いている。 マーク・スチュワートに続いて、2人目の故人となってしまった。 ジョンもまだ63歳だった。
7月21日 トニー・ベネット
1951年に "Because of You" を全米一位に叩き込んでから、数十年にわたり近年まで精力的に活動を続けてきた。 95歳になった2021年には、レディ・ガガとのデュエット・アルバム "Love for Sales" をヒットさせている。 その後、体調維持のため引退生活を送っていたが、アルツハイマーを悪化させて、96歳で亡くなった。
7月26日 シネイド・オコナー
アイルランド出身の歌手で、カトリック教会への複雑な感情を生涯抱え続け、メンタルを悪化させて56歳の若さで亡くなった。 死因は明らかにされていない。 彼女の死の直後に開催されたフジロックのフー・ファイターズのステージでは、アラニス・モリセットと共に、シネイドに捧げる "Mandinka" がカバー演奏された。
7月26日 ランディ・マイズナー
ポコやイーグルスのオリジナル・メンバーでベーシスト。 イーグルスでは "Take it to the limit" や "Try and Love Again" などの名曲を生み出している。 ポコでもイーグルスでも、ランディが脱退した穴はティモシー・シュミットが埋める形になった。 今世紀に入ってからは、心臓疾患やアルコール依存に苦しんでおり、慢性閉塞性肺疾患の合併症で、77歳で亡くなった。
8月9日 ロビー・ロバートソン
ボブ・ディランのバック・バンドが前身であるザ・バンドを経て、1987年からソロ活動やプロデューサー稼業を続けていた。 2019年のアルバム "Sinematic" が最後の作品となった。 享年80歳。
8月24日 バーニー・マースデン
1977年のホワイトスネイクへの参加で知られるギタリスト。 ヒット曲 "Here I Go Again" はバーニーとデヴィッド・カヴァーデールとの共作である。 1982年にホワイトスネイクを解雇された後も、多数のソロ・アルバムやセッションの作品を残している。 72歳で、細菌性髄膜炎で亡くなった。
9月16日 ジョン・マーシャル
1972年にソフト・マシーンへ加入して以来、メンバーが激しく入れ替わる中、一貫してバンドを牽引してきた。 ソフト・マシーンのほか、ブリティッシュ・ロック界の無数のアルバムに参加している。 2018年にはビルボードライブで最後の来日を果たしたが、このとき既に背中が直角に曲がって歩くのがやっとという状態だったが、ドラム・スツールに座ったとたんにドラミングを炸裂させていた。 82歳で亡くなったが、死因は公開されていない。
10月29日 Heath
X Japanのベーシスト。 6月の検査で大腸癌が発見され、そのタイミングで既に手遅れの状態だった。 まだ55歳の若さだった。
11月26日 ジョーディー・ウォーカー
80年代のインダストリアル系ポスト・パンクを代表するキリング・ジョークの中心メンバーで、ギタリスト。 心臓発作で、64歳だった。
11月30日 シェイン・マガウアン
1982年に結成されたケルティック・パンクのザ・ポーグスのボーカリスト。 1996年に解散したが、2001年に再結成されツアーを続けていた。 肺炎を悪化させて、65歳で亡くなった。
12月5日 デニー・レイン
ムーディー・ブルースのオリジナル・メンバーで、さらにその後のウイングスでの活動で知られている。 ウイングスでは、結成から解散までの10年間、終始ポール・マッカートニーを支え続けた。 コロナの後遺症である肺炎で亡くなった。 79歳だった。
ミュージシャン達の年齢を考えると、残念ながらこれから先の5年間くらいは訃報がまだ増えるのだろう。
そこから後の音楽はどうなってしまうのだろうか。
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2022年に再開したライブは、2023年にはいって完全に復活した。 ディープ・パープルやエリック・クラプトンといったベテラン勢に加えて、リナ・サワヤマやマネスキンのような旬のアーティストまで、多くの人たちが海外から来日してくれたことが大きな特徴であろう。 私自身、昨年末に「時間と財布が許す限り、片っ端から観に行くしかない」と書いたのだが、その通り、ライブがあればとにかく片っ端から参加してみた。 勢いで、2023年はフジロックとサマソニの両方とも行くことになってしまった。 1月20日(金) 東京ガーデンシアター リナ・サワヤマ 2022年のサマソニ以来、半年ぶりの凱旋ライブである。 サマソニ同様に、ギター、ドラム、ダンサー全て女性で編制され、超絶にかっこいい。 アコースティック・コーナーでは、"Dedicating to gay community" とのMCで、性的マイノリティに捧げる歌を歌い、会場中でレインボー・フラッグが掲げられた。 母国でのライブであるため、MCのほとんどはベタな日本語で通していたが、いわゆる "Anime" "Kawaii" "Harajuku" みたいな日系に対するステレオタイプを一切排したド直球の実力で勝負しているので、兎に角かっこいいのである。 ちょうど同時期、グウェン・ステファニーが Harajuku Girls なるプロジェクトで「まるでミンストレル・ショーだ」と文化的簒奪として批判を受け、アメリカのアジア系市民からボコボコにされているのと対照的だった。 2月13日(月) ガーデンホール クーラ・シェイカー リナ・サワヤマに続き、クーラ・シェイカーも2022年のサマソニから1年もおかずに再び来日した。 サマソニでは時間の制約があったが、今回の単独ステージでは演奏時間も正味1時間半となった。 ノリのよい "Hey Dude" で幕を開け、途中にジョン・レノンのカバー "Gimme Some Truth" などを挟んで突っ走り、これまたノリのよい "Hush" でいったんエンディングとなる。 アンコールは「ジョージ・ハリスンに捧げる」とのMCで、ラーガ・ロックの "Gokula" から "Govinda" まで演奏。 クリスピアンは、サイケなプリントを施した2本のストラトを持ち替えていた。 2月19日(日) 東京ドーム レッド・ホット・チリ・ペッパーズ 2016年のフジロック、2019年のサマソニから4年ぶりの来日。 単独公演としては2007年から16年ぶり、ジョン・フルシアンテが復帰してからは初の来日となった。 広大な東京ドームがスタンドの上のほうまでビッチリと満席である。 セットリストは2022年にリリースされたアルバム "Unlimited Love" と "Return of the Dream Canteen" を中心にしたものだったが、過去のアルバムからも満遍なくピックアップされ、特にアンコールは " Blood Sugar Sex Magik" から2曲演奏された。 ライブのスタートが17時半と非常に早く、アンコールを含めて丸二時間の演奏であったが、まだ19時半という時刻に終了してしまい、若干気抜けしてしまった。 ちなみに今回初めて東京ドームの「バルコニー席」のチケットで入場したが、ステージは遠いうえに真横、モニターすらまともに見えないという状態で、はっきり言って価格が高いだけのクソ席だった。 野球観戦ならいいのだろうが、ライブで座る席ではない。 2月27日(月) 日本武道館 メガデス こちらも2017年から7年ぶりの来日。 この日のライブはWowWowで生中継された他、全世界に同時配信された。 今回のライブには、旧メンバーで日本在住のマーティ・フリードマンが後半に参加し、"Countdown to Extinction" "Tornado of Souls" "Symphony of Destruction" の3曲を演奏して、激しいギター・ソロを繰り出した。 直前の24日の追加公演ではマーティが参加しなかったが、この日はマーティが参加した3曲がセットリストに追加される形となったとのことで、幸運であった。 3月3日(金) Zepp ダイバーシティ東京 アーチ・エネミー 2018年の六本木EX THEATERでのライブから5年ぶり。 直前にメガデスの来日があったこともあり、なぜかメガデスのシャツを着た観客が多かったのが笑える。 ライブは19時きっかりに始まって、アンコールを含めて丸二時間やってくれた。 クリア・ボイスから突如デスボイスに切り替わるアリッサの変幻自在のボーカルと、激しいヘッドバンキング。 そして、ギターは高速のスラッシュ・リフだけでなく、ブルーノートを多用した泣きのギターの絡みも聴かせてくれた。 デスメタルという狭いカテゴリーに捉われない素晴らしいバンドである。 3月8日(水) ビルボードライブ横浜 PUFFY 毎年必ず一度は見るPUFFY。 六本木のビルボードで観るのが通例だったが、今回は良い席が確保できなかったので、席に余裕のある横浜へ行ってみた。 相変わらずの脱力MCが心地好い。 この日のライブでは、洋楽のメドレーにチャレンジして、これがたいへん楽しかった。 まさかPUFFYの二人からガンズの "Sweet Child O'Mine" やMr. Bigの "More Than Words" が聴けるなんて予想すらしていない。 ビルボードのステージは短いのが残念だが、最後はお約束の「アジアの純真」「これが私の生きる道」で終了。 大満足。 3月11日(土) 有明アリーナ スティング ポリスとしてデビュー45周年を迎えるタイミングでの、4年ぶりの来日。 今回は息子のジョー・サムナーがアコギ一本で30分ほどのオープニング・アクトを務めた。 ポリスの "Message in a Bottle" で開幕した後はほぼソロの曲が続き、後半になって "Walk on the Moon" "So Lonely" など再びポリスの曲を炸裂させ、最後は "Every Breath You Take"、アンコールは "Roxanne" で盛り上げた。 およそ二時間にわたるライブだったが、使い込んだベースを持ち替えることなく、ステージを走り続けた。 恐るべき71歳。 3月13日(月) 日本武道館 ディープ・パープル ディープ・パープルも、2018年以来、5年ぶりの来日である。 1972年の初来日から実に51年経っており、当時20代だったイアン・ギランやロジャー・グローバーは77歳、イアン・ペイスは74歳である。 直前に脱退したスティーブ・モースに代わって加入したサイモン・マクブライドは、トリッキーな技を繰り出すわけではないが、しっかりとバンドを支えていた実力者である。 セットリストは新旧取り交ぜてのものとなったが、"Highway Star" で始まり "Black Night" で〆るという、正に51年前のライブを蘇らせる構成だった。 まさか51年も経ってから、この場所で "Highway Star" を演奏するとは、本人たちも夢にも思わなかっただろう。 3月26日(日) 幕張メッセ LOUD PARK 2017年を最後に、さらにコロナの影響もあって6年間開催されてこなかったLOUD PARKが、ようやく復活した。 ナイト・ウィッシュやストラトヴァリウスのようなシンフォ系に、カーカス、クリーター、スレイヤーといったゴリゴリのエクストリーム系、スラッシュ系を取り交ぜた、メタルの幅広いサブ・ジャンルを含むフェスとなった。 観客側にとっても待ちに待ったイベントであったため、午後早い時刻のブリード・フロム・ウィズインから、会場のあちこちでサークル・ピットやモッシュ、ダイブが炸裂。 ヘッドライナーのスレイヤーでは、ザック・ワイルドが超重量級のギターを堪能させてくれた。 バンドとバンドの間にまったく休憩がない、さながらメタル耐久レースのようだったが、とても楽しいイベントであった。 4月1日(土) ビルボード東京 リチャード・カーペンター カレンが亡くなってから40年も経ってしまった。 カーペンターズとしての最後の来日は1976年なので、実に47年の時を経てのライブである。 まずはリチャードがピアノだけで "Close to You" を弾き始めたので、最初から涙腺決壊。 "Rainy days and Mondays" や "I Need to Be in Love" などのヒット曲が続くが、全てピアノのみの演奏である。 おそらくカレンへのリスペクトなのだろう。 一方、MCの時間はふんだんに取り、しかも通訳まで付けてくれており、日本のファンとのコミュニケーションに十分配慮してくれているのが判る。 しかも観客から質問を受け付けるコーナーまで設けてくれた。 「カレンのボーカルがワン・テイクでOKとなった曲があると聞いたが、どの曲か?」とのマニアックな質問に対して、リチャードは「カレンは才能があったのでワン・テイクの曲はいくつもあったが、"Only Yesterday" もその一つだ」と答えて、「本当はセットリストになかったんだけど」と言いながら、そのまま "Only Yesterday" を演奏してくれた。 この後は楽器をエレピに替えて、リチャードの娘たち3人が登場して、"I’ll be yours" や "Top of the world" を演奏。 さらに日本でのみリリースされていたというカラオケ音源を使っての "Jambalaya"。 観客には予め "Jambalaya" の歌詞が配布されており、シンガロングできるようになっているというサービスぶりである。 アンコールは再びリチャード一人となって "We've Only Just Begun" を演奏した後、娘たちが再度加わって "Yesterday Once More" を観客と共に合唱。 またも涙腺崩壊ライブである。 4月12日(水) 東京ガーデンシアター ボブ・ディラン 2018年のフジロック出演以来、5年ぶりの来日となった。 本来は2021年の春に予定されていたツアーがコロナの影響をもろに受けてキャンセルになってしまい、改めてプランされたものである。 ライブは予定の19時ぴったりに始まって、およそ100分間にわたって17曲を演奏した。 この間、ボブはグランドピアノから離れることなく、またMCもアンコールもないスタイルであった。 東京に先立つ大阪での3公演も東京とまったく同じセットリストであるとの情報を確認しており、さらに直前のヨーロッパ・ツアーでも同じセットリスト通りだったようである。 このライブでは、MC無し、アンコール無し、映像効果やモニター無し、しかもスマホ持ち込み禁止で、スマホは電源を強制的に切らされて、鍵付きのシールド・ケースに入れられてしまった。 いろいろ面倒くさい。 4月15日(土) 日本武道館 エリック・クラプトン 毎回「これが最後」と言われるエリック・クラプトンは、2019年以来、4年ぶりである。 今回は、来日公演100回目を含む記念すべき来日で、しかも初日は、初来日と同じ日本武道館でのライブとなった。 私自身も1975年の2回目の来日からほぼ欠かさず観ており、ライブアルバム "Just One Night" の音源にもなった武道館公演にも行っているので感慨ひとしおである。 今回のライブの前半はブルースを中心としたエレクトリックなセットで、"Key to the Highway" や "I'm Your Hoochie Coochie Man" を演奏した。 中盤はアコースティック・セットで、"Nobody Knows You When You're Down and Out" や "Tears in Heaven" のような定番曲に加え、ブルースのカバーを数曲演奏した。 なお "Tears in Heaven" の途中にはプロコル・ハルムの "A Whiter Shade of Pale" を挟み込んだ。 この2年間に数名のメンバーが亡くなったことへの追悼だろう。 最後は再びエレクトリックに戻って、"Badge" や "Layla" などのヒット曲を炸裂させた。 ここ近年、車いす姿を目撃されるなどエリックの健康に不安があったが、今回のライブは現役感あふれるものであった。 80年代に一時間以上遅れたうえ泥酔していてボロボロな演奏を見せられた経験からは、開演予定の19時ぴったりに始まるのも考えられないことである。 今回のライブは、この20年くらいの中ではベストに入るのではないか。 4月20日(木) ビルボード横浜 PLAYING FOR CHANGE with Char 日本、アメリカ、ジャマイカ、南アフリカ、コンゴなど8か国からの総勢12名によるワールド・ミュージックの展示会のようなライブ。 ブルージーな曲もあったものの、ほとんどがリンガラやレゲエをベースにした天然のダンスミュージックだった。 Charはソロをあまり取らず、ほぼカッティングに徹していた。 シブくも楽しい時間だった。 5月10日(水) ビルボード東京 ジョージ・クリントン & PARLIAMENT FUNKADELIC ほぼ一年おきに来日しているジョージ・クリントン & PARLIAMENT FUNKADELICを観るのは3回目である。 80歳を超えているジョージ・クリントン総裁は前回の来日で終始座りっぱなしだったが、今回はいきなり客席に飛び込むなど非常に元気で、半分の時間は歩き回っていた。 彼も健康が回復したようで何よりである。 バンドのメンバーは総勢14名におよび、狭いビルボードのステージはひしめき合うようであった。 今回の来日では、10分に渡るギターソロなど、メンバーそれぞれにスポットを当てる、従来見られなかった配慮がされていた。 5月12日(金) 川崎CLUB CITTA’ スティーヴ・ヒレッジ・バンド & ゴング スティーヴ・ヒレッジ・バンドとゴングによる2018年以来5年ぶりの来日。 前回はビルボードでゴングにスティーヴがゲスト参加する形だったが、今回はしっかり2本立てのライブとなった。 とは言え、オープニングがゴングで、それにスティーヴとミケット・ジローディが加わったらスティーヴ・ヒレッジのバンドというものである。 ゴングは、複雑な変拍子と構成で、ピエール・モエランが主導権を握っていた頃の演奏を彷彿とさせるものであった。 一方、スティーヴ・ヒレッジが加わると、デヴィッド・アレンによる初期ゴングに近いものとなり、ライティング・ショウも Radio Gnome Invisible のアニメを多用していた。 ワウファズにエコーを効かせたスティーヴのギターが全開である。 しかし間に25分の休憩を挟んだとはいえ、ライブは3時間を超えており、演奏側の集中力と体力は大変なものあっただろう。 6月26日(月) ブルーノート東京 ラリー・カールトン 通常の私の守備範囲から完全に離れたジャンルであるが、たまにはよい。 クルセイダースやスティーリー・ダンの曲をそれぞれ数曲演奏してくれたが、さすがに私でも知っているし、締めは "Room 335"。 リアルタイムで聴いたのは中学生のときだったので、もう半世紀も経っている曲なのかと思うと、しみじみする。 当時はロングヘア―だったラリーも、今や完全なスキンヘッドになってしまった。 6月29日(木) Spotufy O-East ブラッディウッド 世界的に注目を集めている、ニューデリー出身の6人組のメタルバンド。 フロントは2人のリード・シンガー(というよりラッパー)が担い、定番のギター、ベース、ドラムに加え、インドの伝統的な打楽器奏者も参加している。 さらにベーシストは時折伝統的な横笛を吹くのだが、60年代のサイケ系のバンドやクーラ・シェイカーのような「ラーガロック」の風味は欠片も無い。 終始、爆音のメタルで、バンドも観客もヘッドバギングしっ放し、ジャンプしっ放しである。 ハードロックやメタルを半世紀聴いてきたのだが、これは完全に初体験であった。 7月21日(金) 日本武道館 トト コロナ禍を挟んでの4年ぶりの来日。 残念ながらオリジナル・メンバーはスティーヴ・ルカサーだけになってしまった。 しかし他のメンバーも多くのバンドやレコーディング・セッションで磨き上げた凄腕ばかりで、しかも全員がリードボーカルも執れるため、コーラスも絶妙である。 演奏した曲数は15曲で1時間半を超えるくらいだったが、"Hold the Line" "Rosanna" "Africa" などのヒット・パレードで、お腹がいっぱいになった。 アンコールはビートルズの "Little Help from my Friend"。 スティーヴがリンゴ・スターのバンドでツアーをする際の定番曲だが、スローバラードにアレンジしたもので、こちらも素晴らしい演奏だった。 7月25日(木) Line Cube Shibuya スパークス 2018年と2022年のサマーソニックで来日しているが、単独公演は2017年以来6年ぶり。 おりしもニューアルバム "The Girl Is Crying in Her Latte" がリリースされた直後であり、3割ほどの曲がここからのものだったが、"A Woofer in Tweeter's Clothing" や "Kimono My House" などからも幅広く選曲された。 飄々としたロンと、踊りまくるラッセルの好対象は相変わらずである。 ワールドツアーの最後が日本、しかも来日の最終日ということもあって、アンコール終了後も涙を浮かべて名残惜しそうに中々袖へ引っ込まない2人が印象的であった。 7月26日(水) 日本武道館 Mr.Big 2017年の来日から6年ぶり。 この間に、残念ながらパート・トーピーがパーキンソン病で亡くなってしまい、今回はニック・ディヴァージリオをサポート・ドラマーに迎えての公演となった。 Wow Wowの生中継が入っていることもあり、19時きっちりに始まり、30曲近くを2時間半繰り広げた。 特にビリー・シーンはダブル・ネックのベースを1時間近く使い続けており、恐るべき体力である。 セットリストはヒット・パレードで、途中のアコースティック・コーナーはアリーナの中心にセリ出た花道での演奏となり感涙。 最後には各メンバーの家族に加えて、パットの遺族をビリーがステージ上で紹介するサプライズもあり、メンバーも観客も全員が涙腺決壊状態になってしまった。 7月28日(金)~ 30日(日) フジロック コロナ蔓延まではフジロックかサマソニのどちらかに行くようにしていたのだが、私自身7年ぶりのフジロックになった。 今回の目当てはフー・ファイターズである。 2015年のフジロックで観たときは、デイヴ・グロールが骨折治療中で、椅子に座ったままだったことを思い出した。 残念ながらテーラー・ホーキンスが亡くなってしまうという事件を挟んでの再度のフジロックだが、デイヴはことあるごとに "For Fuji!" を叫び、まったく湿っぽくならずに最後まで駆け抜けた。 フー・ファイターズの日本でのライブは必ずゲストが参加するので、それも楽しみの一つであるが、今回はアラニス・モリセットが加わって、先日亡くなったばかりのシニード・オコーナーの "Mandink" を演奏。 さらに後半には翌日演奏する予定のウィーザーのパトリック・ウィルソンが現れ、"Big Me" に加わった。 最高である。 それから、フェスならではの楽しみ方の一つは、普段あまり縁のないアーティストやバンドを観ることである。 今まで一度もみたことがない矢沢永吉を見届けようというのも、今回の目的のひとつであった。 はっきり言って最高でした。 斜に構えて臨んだことを心底詫びたい。 「まもなく74歳になります。ストーンズは80歳でもがんばってるからね。ははは、言っちゃった」との自爆MCも素敵だった。 永ちゃんに頭を引っ叩かれたような思いをしたのも、今回最大の成果。 8月14日(月) ブルーノート東京 小野リサ フジロックとサマソニの谷間の、ブルーノートでボサノヴァ。 いただいていた招待券を使ったので、ミュージック・チャージは無しで観ることができた。 小野リサのバンドでサックスを吹いていたブラジル出身のGustavo Anacletoさんは、直前のフジロックで永ちゃんのライブでも吹いていたことがリサのMCで発覚。 守備範囲が広すぎである。 8月19日(土)~ 20日(日) サマーソニック フジロックから僅か3週間後のサマーソニック。 懸念された台風の影響はなく、空は晴れ渡り、とにかくクソ暑いが、初日は一日中マリン・スタジアムのスタンドから観戦することにした。 正午から始まった韓国の女性チームのニュージーンズから、すでにアリーナは溢れんばかりの人でいっぱいになっており、スタンドもてっぺんまで満席である。 一年前のストラッツでは、アリーナの前のほうに一塊の人がいるだけだったので、一年でこの変わりようには驚いた。 主催者側が「モッシュやダイブやるな」って言ってるのに、バンド自ら率先して客席のど真ん中にダイブするファール・アウト・ボーイ。 9年ぶりの来日となったブラー。 すっかり体が干上がってしまったが、最高であった。 なお、読売新聞が「大量の熱中症による搬送者が発生」と報じていたが、確かに殺人的な日差しだったので、日陰にいなければ多分10分で倒れただろうと思う。 やはりステージまで多少遠くても、スタンドの屋根の下で観戦するに限る。 二日目は、まずメッセ内のマウンテン・ステージで、ノヴァ・ツインズと、ももクロの二組の女性グループを観てから、再びマリンのスタンドへ移動。 この日の目当てはリアム・ギャラガーだったが、それまでK-Popやラップなど普段はほとんど縁のないジャンルの人たちのパフォーマンスをリラックスして楽しんだ。 リアムは、セットリストの半分がオアシス時代の曲で、観客と大合唱。 この時点で既に8時間経過しており、完全に力尽きてしまった。 リアムの後は再度マウンテン・ステージへ戻ってBabymetalを観るつもりだったが、体力も気力も完全に限界を超えていたため、ここで打ち止めである。 やはり真夏の酷暑の下でのフェス二日間はきつい。 9月19日(火) KT Zepp Yokohama エクストリーム ニューアルバム "Six" を引っ提げての、7年ぶり、10回目の来日。 "It" や "Decadence Dance" といった古典的名曲で幕を開け、2時間にわたり19曲を演奏してくれた。 ニューアルバムからも4曲演奏し、アンコールはすべて新曲で占められていた。 自分達の曲の頭に、クイーンの "We Will Rock You" や "Fat Bottomed Girls"、ヴァン・ヘイレンの "Eruption"、ジェームス・ブラウンの "Sex Machine" を持ってくるような、先人に敬意を払う遊びも見せてくれた。 途中、"Midnight Express" でヌーノが8分に渡るアコースティック・ソロを披露し、そのまま "More Than Words" に突入したが、その他はひたすらファンキーでノリのいいハードロックで押し通した。 メンバー4人とも終演後もなかなか引っ込まず、名残惜しそうにしていたのが印象的であった。 9月21日(木) Zepp DiverCity オリアンティ 2016年のリッチー・サンボラとの公演以来、7年ぶりの来日。 今回は自身のバンドを引き連れてのライブとなった。 途中で2つのアコースティック・ナンバーを演奏したが、それ以外はすべてヘヴィなハードロックとブルースである。 マイケル・ジャクソンのバックで演奏していた "Black and Whie" を披露したほか、自らヒーローと公言するサンタナの "Europa" やジミ・ヘンドリックスの "Voodoo Chile" もカバー。 アンコールも含めて1時間20分程度で、昨今ではコンパクトなセットだが、充実したステージだった。 9月23日(土) Zepp DiverCity テスタメント / エクソダス / デス・エンジェル 西海岸スラッシュ・メタルの3バンドが The Bay Strikes Back と題したパッケージ・ツアーで来日した。 会場側から事前に「モッシュやダイブはお止めください」とのアナウンスがあったにもかかわらず、オープニングのデス・エンジェルから激しいモッシュが開始。 エクソダスは「写真を撮ろうが、ダイブしようが全然かまわないから気を付けてやってくれ」とのMC。 さらに最前列の客に向かって「左右に分かれろ」と指示して、わざわざサークルピットのための準備まで煽る始末である。 最後のテスタメントまでおよそ4時間、立ちっぱなし、暴れっぱなしで、完全に力尽きた。 10月17日(火) 豊洲PIT スティーヴ・ヴァイ スティーヴ・ヴァイの単独来日公演は2014年以来9年ぶり。 2014年のときはビルボードだったので演奏時間は1時間程度であり、その後の2019年の来日はザック・ワイルドやイングヴェイ・マルムスティーン、ヌーノ・ベッテンコートらとの "Generation X" としてだった。 たびたび来日してくれてはいたものの、2時間半にもわたってスティーヴの演奏を堪能できたのは初めてである。 セットリストはオープニングの "Avalanche" を含め、半分近くがアルバム "Inviokate" からのもので、ほぼインスト。 ギターをボーカルに模してのコール・アンド・レスポンスまでやってみせた。 途中、トリプル・ネックのギター「ハイドラ」を用いた凄まじい演奏の後は、会場に居合わせた日本人製作者を紹介する心遣いもあった。 長時間にわたるインストのライブだったが、まったく飽きることのないものであった。 10月18日(水) TOKYO DOME CITY HALL テデスキ・トラックス・バンド デレク・トラックスとスーザン・テデスキの夫婦を中心に、ツイン・ドラムやホーン・セクションなど総勢12名の大編成のバンド。 スーザンの強烈なボーカルとギターに絡んで、デレクのスライド・ギターが炸裂する。 来日直前の全米ツアーでは、連日、全曲総入れ替えのセットリストで演奏していたので、曲目はまったく予測がつかない。 この日はデレク・アンド・ザ・ドミノスの "Bell Bottom Blues" をカバーしたが、日によってはオールマン・ブラザースやレオン・ラッセルのカバーになることもあるようだった。 要するに、行けるものなら全日程行けということなのだろう。 21世紀も四半世紀過ぎているのに、こんな音を浴びることができるとは思わなかった。 11月3日(金) Kアリーナ横浜 モトリー・クルー / デフ・レパード デフ・レパードとモトリー・クルーのダブル・ヘッド・ライナーのライブ。 デフ・レパードは2018年から5年ぶり、モトリー・クルーは2015年以来、実に8年ぶりの来日となった。 この組み合わせで8月まで全米ツアーを行っており、横浜がワールド・ツアー再開の初日となった。 デヴィッド・ボウイの "Heros" が爆音で流れる中、予定の17時ぴったりにデフ・レパードから始まった。 デフ・レパードはニュー・アルバムの "Take What You Want" から始まり、最後の "Photograph" まで全17曲のヒット曲を一時間半にわたって繰り広げた。 後半、ジョーの声がかすれてきたのが残念である。 その後30分のインターバルを挟んで、モトリー・クルーが開始。 こちらも "Wild Side" から "Kick Start My Heart" までヒット・パレード。 引退したミック・マースの後継ギタリストであるジョン5が大活躍しており、さりげないフレーズの中にもトリッキーな技を繰り出して、ミックの穴を埋めるどころか、ライブを完全に牽引していた。 11月19日(日) すみだトリフォニーホール ダリル・ホール / トッド・ラングレン トッド・ラングレンとダリル・ホールの来日共演。 この二人の組み合わせで全米ツアーを行った直後の来日である。 会場の「すみだトリフォニーホール」は、2019年のトッド・ラングレン単独公演の際にも使った会場だ。 ダリル・ホールは2015年のホール&オーツ以来、8年ぶりの来日になった。 まず第一部はトッド・ラングレンが登場し、およそ一時間の演奏を繰り広げた。 一曲目の "Real Man" から、途中のモータウン・メドレーも含め、トッドらしさが何も変わっていない安定のライブだった。 トッドの後に20分ほどの休憩を挟んで、ダリルが登場。 バンドのメンバーは、トッドのときと変わらない。 ソロ・アルバムやホール&オーツの曲はもちろんのこと、ポール・ヤングに提供した "Everytime You Go Away" やユーリズミックスの "Here Comes the Rain Again" のピアノ弾き語りまで披露してくれた。 そしてアンコール一回目は、トッドも参加して "Wait for Me" や "Can We Still Be Friends" を演奏。 二回目のアンコールはお約束の "Private Eyes" で盛り上がった。 11月24日(金) Line Cube Shibuya ワイナリー・ドッグス マイク・ポートノイ、ビリー・シーン、リッチー・コッツェンによるスーパー爆音トリオ。 このバンドとしては2016年以来7年ぶりの来日だが、ビリー・シーンは7月にMr. Bigで来日してから4か月しか経っていない。 客電が落ちて、グランド・ファンクの "We're an American Band" とジョージ・クリントンの "Atomic Dog" が爆音で流れる中、三人が登場。 アンコールの "Regret" でリッチーがピアノを弾いた箇所以外はバラードも無く、すべて爆音のハード・ロックで押し切った。 ビリー・シーンのベース・ソロは8分にも及んでおり、Mr.Bigでは彼なりに抑制をかけていたのだろうと推測された。 12月2日(土) 有明アリーナ マネスキン 2022年のサマソニのマリンステージから1年半を経ての単独初来日で、丸二時間の演奏を繰り広げてくれた。 この期間に人気が世界的にうなぎ上りで、広大な有明アリーナも満席となっていた。 ステージはライティングを駆使した演出で、これも真昼間のサマソニからまったく異なるものであった。 途中、アリーナ席のど真ん中にステージが浮かび上がり、アコースティック・セットを披露するサプライズも。 ギターのトーマスは、4回に渡って客先にダイブして演奏し、ヴォーカルのアミアーノも客席にダイブして歌ってくれた。 現在進行形で最高峰のバンドである。 毎年年末、必ずビルボードで観ていた岸谷香さんのライブが、なぜかこの冬は1月とのことで、マネスキンが年内最後のライブ観戦となった。
年が明ければすぐ、クイーン、ポール・ウェラー、クーラ・シェイカーなどが目白押しなので、とても楽しみである。 コロナ蔓延の前までは、毎年フジロックとサマーソニック(以下「サマソニ」)のどちらかに必ず参戦していた。 この夏、コロナ自体は第9波で高止まりしたままだが、フジロックもサマソニも通常の開催に戻ったので、この際両方フルに参加してみることにした。 まず7月28日から30日の3日間がフジロックである。 天気に恵まれたのはよかったが、とにかく日差しとの闘いだった。 メインのグリーン・ステージは、日陰を求めて数少ない樹木の下の奪い合い。 フィールド・オブ・ヘブンは最後方に若干の日陰があったものの、時間とともに一面日向になってしまった。 10分も日に当たっていると、意識を失いそうになるほど暑い。 しかたないので、現場にあった工作物と木の間にビニールシートをぶら下げて、簡易テントを作ってみた。 テントの持ち込みや日傘が禁止事項であるのはもちろん判ったうえでの事なのだが、ここから後ろには藪で誰もいないし、見逃してくれたようである。 ところで今回のフジロックでは、全ての飲食で現金が使えず、電子決済が導入されていた。 これが超絶ポンコツな代物で、特にパスモなど交通系カードは処理に数分かかる始末である。 おかげでどの店舗も長蛇の列で、稲荷寿司を買うだけで30分もかかっってしまった。 店側もこんな回転率では商売にならず、「お客様からも運営に苦情入れてください」と頼まれるような状況だった。 当然ながら初日に相当数の苦情が主催側にあったと思われ、二日目からは「現金不可」があっさり撤回された。 まるで某マイナ保険証のような大失態である。 客は待たされ、店側はピンハネされ、誰も幸せにならない仕組みなので、来年は止めてもらいたい。 個人的に、今年のフジロックの最大の目当ては、2日目のフー・ファイターズだった。 テイラー・ホーキンズ亡き後どうなることかと思ったが、デイヴ・グロールを中心に、完璧なショーを繰り広げてくれた。 そして思わぬ収穫だったのが、初日の永ちゃんである。 いままで全く縁のない人だったが、本当に最高だった。 なんでファンがあんなに熱くなるのかも、よくわかった。 これは一緒にタオル投げしたくなりますよね。 こういう体験があるから、フェスは止められないのである。 フジロックの最大の問題は、宿泊と交通機関であろう。 苗場から下山するためのバス待ちを避けるため、フー・ファイターズの最後の数曲を残してグリーン・ステージからバス乗り場に向かったのだが、これがまったく甘かった。 既にバス待ちの列は乗り場が見えないところまで伸びており、しかもまったく動かない。 22時過ぎに並び始めたのに、バスに乗れたときはもう日付が変わっていた。 過去には、越後湯沢から苗場へ向かうバスも2時間以上待ったことがある。 これは本当にどうにかならないのだろうか。 フジロックから3週間経過して、8月19日と20日の2日間がサマソニである。 こちらも心配された台風が逸れて、朝から雲一つない晴天。 初日はマリン・スタジアムに腰を落ち着けて、一日過ごすことにした。 マリンはステージに向かって右側のスタジアム席なら終日日陰になっていることを経験上わかっていたので、さっそく居場所を確保。 しかしスタジアムから眺めるアリーナの人出は凄まじいものである。 昼過ぎのNewJeansから、身動きも取れないであろうほどの立ち見客になっている。 昨年の同じ時刻帯では、アリーナの前方に一塊の人たちがいるだけだったので、数倍どころか数十倍の人出になっていたのではないか。 翌日の報道で知ったが、案の定100人以上が救護室に運び込まれ、救急搬送された人もいたとのこと。 ステージの前のほうで観たい気持ちは痛いほどわかるが、真夏のフェスは無理せず安全第一で過ごしたほうがよいだろう。 それから主催者側が「モッシュやダイブやるな」と警告しているのに、ファール・アウト・ボーイのようにバンド自ら率先して客席のど真ん中にダイブする連中もいるから、アリーナはいろいろ覚悟したうえで臨まないと本当に危険である。 そしてサマソニ2日目は、まずメッセ内のマウンテン・ステージで、ノヴァ・ツインズとももクロを観る。 ノヴァ・ツインズはイギリスの女性二人組で、楽器は歪みまくった爆音ベースとドラムのセットが殆ど。 初めて聴いたが、これは大収穫だった。 この後は例によってマリンへ移動し、目当てのリアム・ギャラガーまでのんびり過ごす。 リアムのステージの半分はオアシス時代の曲で占められ、大合唱大会になる。 当初の予定では、ここで再びマウンテン・ステージに移動してベビメタを観るつもりだったが、もう力尽きてしまい、撤退することにした。 ベビメタのライブも凄くよかったらしいので残念であるが、体力の消耗には勝てないので仕方ない。 さて、フジロックとサマソニを続けてハシゴしたのは初めてなので、いろいろ比較しておきたい。 フジロックは宿泊関連がとにかく最悪。 毎度、苗場周辺で宿を確保できるはずもなく、越後湯沢やかぐら周辺、場合によっては新幹線で一駅乗って、浦佐に宿を取ることもあった。 今年泊まった宿は、なんと風呂無し、トイレ無し、さらに空調無しという驚愕の環境だった。 これで幕張のホテルのツイン一人使用とほぼ同価格なのであるから、これをボッタクリと言わずして何と言えばいいのか。 それから、前述したように、苗場のバス待ち時間も最悪である。
自宅からサマソニまでの移動時間と、苗場のバス待ちの時間がほぼ一緒。 首都圏に住んでいれば、サマソニ日帰りも全然苦にはならない。 フジロックのバス待ちは苦行である。 加えて、サマソニではマダニに咬まれない。 うまくスケジュールを考えれば、直射日光を避けられる。 そして何と言ってもトイレが清潔だし、一歩会場の外に出れば普通に食事ができる。 結局、出演者の顔ぶれ以外においては、すべての点でサマソニに軍配を上げざるを得ない。 もう自分の年齢的にも、フジロックは無茶になってきているのだろう。 残念である。
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2022年に亡くなったミュージシャンを追悼する記事の中で、「ロック黄金期の70年代から半世紀」と書いたのが昨年末である。
それから既に1か月が経過し、50周年盤の企画が耳に入り始めてきたので、このあたりで半世紀前に当たる1973年のロック・シーンを振り返ってみたい。 まず、この年はプログレ・シーンにとっても絶頂期であった。 リリースされたアルバムは、ピンク・フロイド「狂気」、イエス「イエスソングス」、EL&P「恐怖の頭脳改革」など大作そろいで、その後、長期にわたって聴き継がれてきたものが多い。 アルバム名を敢えて邦題で書いてみたが、ぶっ飛んだ意訳のものが多く、しかもそれが的を得ているところが面白い。 プログレ以外でも、レッド・ツェッペリン「聖なる館」、クイーン「炎のロックンロール」、ザ・フー「四重人格」など、ぶっ飛んだ邦題ですっかり定着しているのではないか。 様々な新しい音楽が興る中、60年代の大御所が変わろうともがいていたのも、この年の特徴である。 イギリスではエリック・クラプトンがドラッグで何年も引き籠った状態だったが、ピート・タウンジェントらの助けを得て、レインボー・シアターでリハビリを兼ねたライブを行った。 翌年1974年には、大きく変貌を遂げた "461 Ocean Boulevard" で復活を果たすことになる。 一方、ビートルズは解散からまだ3年しか経っておらず、再結成を期待する空気が強かった。 ポールはウィングスでツアーを開始し、ジョンは "Mind Game" を、ジョージは "Living in the Material World" をそれぞれリリースし、ソロ活動で既に成功している。 年末にはリンゴのアルバム "Ringo" に、ポール、ジョン、ジョージ全員が楽曲を提供し、再結成の期待がますます高まったが、遂に叶うことはなかった。 そしてアメリカでも、グランド・ファンク・レイルロード、オールマン・ブラザース、ニューヨーク・ドールズなど様々なジャンルが入り乱れての百花繚乱状態であった。 時代は混乱の60年代から落ち着きを取り戻しつつあったが、ベトナム戦争が終結するまでさらに2年待たなければならなかった。 そして南米チリでは民主的に選出されたアジェンデ政権が、CIAにバックアップされた軍部ファシストのクーデターで倒され、暗黒の時代を迎えることになってしまった。
1月6日 カーリー・サイモン “You're So Vain” 全米一位。
1月9日 ローリング・ストーンズの来日、ミック・ジャガーのドラッグを理由に入国できずキャンセル。
1月13日 エリック・クラプトンがレインボー・コンサートで復帰、カーリー・サイモン ”No Secret” 全米一位五週、スレイド “Slade” 英一位三週。
1月18日 ローリング・ストーンズがニカラグア大地震被災者救済コンサート開催。
1月27日 スティーヴィ・ワンダー “Superstition” 全米一位。
1月30日 キッス、ステージ・デビュー。
2月3日 エルトン・ジョン “Crocodile Rock” 全米一位、スティーヴィ・ワンダー “Talking Book” 全米三位。 2月10日 エルトン・ジョン “Don't Shoot Me I'm Only the Piano Player” 英一位六週、3月3日には全米一位。
2月17日 ウォー “The World Is A Ghetto” 全米一位、フリー最後のライブ。
2月24日 バーズ、米国で最後のライブ。 3月3日 グラミー賞で “The Concert for Bangla Desh” が最優秀アルバム受賞。
3月8日 ポール・マッカートニー、スコットランドにてマリファナ所持で罰金。
3月10日 ピンク・フロイド “The Dark Side of the Moon“ (邦題「狂気」)リリース、28日に全米一位。
3月24日 アリス・クーパー “Billion Dollar Babies” 英一位。
3月28日 レッド・ツェッペリン “Houses of the Holy” リリース、4月10日に全英一位、5月12日に全米一位。
4月2日 ビートルズ、いわゆる赤盤・青盤リリース、青盤は5月26日全米一位。
4月9日 クイーン、マーキーでライブ・デビュー。
4月13日 ロジャー・ダルトリー “Daltrey” リリース。 4月25日 スウィート “Little Willie” ゴールド。 4月28日 フェイセス “Ooh La La” 英一位。
5月1日 バックマン・ターナー・オーヴァードライヴ “Bachman-Turner Overdrive” リリース。
5月7日 ジョージ・ハリスン “Give Me Love” リリース。
5月11日 ウィングス初の全英ツアー。
5月14日 スティーヴィ・ワンダー “You Are the Sunshine of My Life” 全米一位。 5月17日 “Yessongs” ゴールド。
5月21日 エドガー・ウィンター “Frankenstein” 全米一位、6月19日にゴールド。
5月23日 ボブ・ディランとザ・バンドのベイスメント・テープス公開。
5月26日 ディープ・パープル “Smoke on the Water” リリース、8月28日にゴールド。
5月28日 ロニー・レイン、フェイセスを脱退。
5月29日 バーズ解散、マイク・オールドフィールド “Tubular Bells” リリース。 6月1日 ロバート・ワイアット骨髄損傷。 6月2日 ウイングス “My Love” 全米一位、”Red Rose Speedway” 全米一位。
6月23日 10CC “Rubber Bullets” 英一位。ジョージ・ハリスン “Living in the Material World” 全米一位。
6月29日 第二期ディープ・パープル解散。 6月30日 ジョージ・ハリスン “Give Me Love” が、ポールの “My Love” を蹴落とし全米一位。 7月2日 イーノ、ロキシー・ミュージックを脱退。 7月6日 クイーン “Keep Yourself Alive” でデビュー。
7月7日 ビリー・プレストン “Round in the Circles” 全米一位二週。
7月13日 クイーン “Queen” リリース。 7月14日 ゲイリー・グリッター、ライブ・デビュー。 7月27日 ニューヨーク・ドールズ “New York Dolls” リリース。
7月28日 グランド・ファンク・レイルロード “American Band” 、9月27日に全米一位。
7月29日 レッド・ツェッペリン、18万ドルの盗難被害。
8月7日 映画 “Jesus Christ Superstar” リリース。 8月11日 エドガー・ウィンター・グループ “Free Ride” リリース。 8月18日 ジェスロ・タル “A Passion Play” 全米一位、ドゥービー・ブラザース “China Grove” リリース。
8月20日 ローリング・ストーンズ “Angie”、10月に全英・全米共に一位。
8月26日 10CCライブ・デビュー。
8月31日 ローリング・ストーンズ “Goats Head Soup” リリース。 9月1日 ロッド・スチュワート “Sing It Again Rod” 英一位三週、キャンディーズがシングル「あなたに夢中」で歌手デビュー。
9月8日 マーヴィン・ゲイ “Let's Get It On” 全米一位、オールマン・ブラザース “Brothers and Sisters” 全米一位五週。
9月15日 チリ軍事独裁政権がヴィクター・ハラを虐殺。
10月6日 スレイド “Sladest” 全英一位四週。
10月12日 エルトン・ジョン “Goodbye Yellow Brick Road” ゴールド。
10月15日 キース・リチャード、フランス入国禁止評決。 10月24日 ジョン・レノン、米政府を盗聴などで告訴。 10月27日 エアロスミス、ボストンでモット・ザ・フープルの前座。 10月29日 ジョン・レノン “Mind Game” リリース、ザ・フー “Quadrophenia” リリース。
11月2日 リンゴ・スター “Ringo” リリース。
11月3日 デヴィッド・ボウイ “Pinups” 英一位五週、ホール&オーツはアルバム・デビュー。
11月9日 ビリー・ジョエル “Piano Man” リリース。
11月10日 ジョン・レノンがフィル・スペクターに “Rock’n Roll” のプロデュースを依頼。 11月24日 リンゴ・スター “Photograph” 全米一位。
12月1日 カーペンターズ “Top of the World” 全米一位。
12月2日 ザ・フー、モントリオールのホテル破壊でメンバーとクルー全員逮捕。
12月3日 リンゴ・スター “You're Sixteen” リリース。 12月10日 CBGB開店。 12月12日 EL&P “Brain Salad Surgery”(邦題「恐怖の頭脳改革」) ゴールド。
12月15日 スレイド “Merry Xmas Everybody” 英一位五週。
12月24日 ドゥービー・ブラザースのトム・ジョンストン、マリファナ所持で逮捕。
12月31日 AC/DCがシドニーで、ジャーニーはサンフランシスコでライブ・デビュー。
ローリング・ストーンズの“Goats Head Soup”は既に2022年に50周年記念盤がリリースされ、ピンク・フロイドの "The Dark Side of the Moon" も予定が見えてきた。
こうなったら、とことん付き合ってやろうと思う。
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ロック黄金期の70年代から半世紀、当時憧れ、愛聴していたミュージシャンたちは後期高齢者となり、年々亡くなる人も増えてきた。
特にそのころ絶頂だったハードロックやプログレ系のバンド・メンバーに顕著である。 今年亡くなった顔ぶれには、キング・クリムゾン、イエス、プロコル・ハルム、ナザレスなどのバンド出身者が目に着く。 そして2022年、いよいよ80年代、90年代に活躍した人たちまで亡くなり始めた。 ディペッシュ・モード、ハッピー・マンデーズ、ボン・ジョヴィのメンバーがこんなに早く亡くなるとは年初に予想されたであろうか。 フー・ファイターズのテイラー・ホーキンズに至っては、まだ50歳だった。 フー・ファイターズの単独ライブを観ることはかなわなかったが、今にして思えばフジロックやサマソニで観ることができたのは不幸中の幸いであった。 年齢とともにミュージシャンの演奏力がグダグダに落ちていく姿に触れるのも辛いものだが、それでも生きていてこそのものである。 薬物のオーバードースなんてバカなことは止めて、健康体で長生きしてほしい。(以下、敬称略) (最終更新 2022年12月24日 21:00)
1月7日 ボビー・ハリスン
プロコル・ハルムの創設期のドラマー。 「青い影」のリリース直後に脱退し、フリーダムやスナフーというバンドに参加していた。 享年82歳で、死因は公開されていない。
1月10日 バーク・シェリー
1968年にデビューしたウェールズ出身のハード・ロック・トリオ、バッジーのベーシスト。 バッジ―はメンバー交代を繰り返しながら、バークは亡くなるまでオリジナル・メンバーとして残っていた。 71歳。
1月18日 ディック・ハリガン
ブラス・ロックの草分けであるブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの創設メンバーの一人で、1968年から1971年まで在籍。 トロンボーンやキーボードを担当し、作曲でも大きな貢献をしている。 BS&T脱退後は作曲活動を中心に活躍していた。 ローマにて78歳で「自然死」したと伝えられている。
1月20日 ミートローフ
60年に渡るキャリアで多くのヒット・アルバムをとばした、テキサス出身のボーカリスト。 映画「ロッキー・ホラー・ショー」での怪演でも有名。 トッド・ラングレンのプロデュースによるソロ・アルバムは、長期間にわたってチャート入りしていた。 死因はコロナ感染によるものと伝えられている。 74歳だった。
2月9日 イアン・マクドナルド
キング・クリムゾンやフォリナーの創設メンバーとして知られており、キング・クリムゾンではフルート、サックス、メロトロンなどのマルチ・プレイヤーとして才能を発揮した。 ダリル・ウェイやスティーヴ・ハケットのバンドにも参加しており、プログレ界に大きな軌跡を残した。 癌で亡くなった。享年75歳。
2月19日 ゲイリー・ブルッカー
ボビー・ハリスンに続き、プロコル・ハルムの創設メンバーであるゲイリー・ブルッカーも亡くなってしまった。 大ヒット曲「青い影」ではピアノとリード・ボーカルを担当しており、バンドの主宰者でもあった。 76歳で、癌だった。
3月25日 テイラー・ホーキンズ
テイラー・ホーキンズの突然の死は、ロック界に大きな衝撃をもたらした。 フー・ファイターズのツアー中、コロンビアのボゴタのホテルで亡くなっているのが発見された。 薬物の過剰摂取が原因とみられている。 フー・ファイターズは直ちにツアーを中止したが、ロンドンとロサンジェルスで大規模な追悼コンサートが開催され、多くのミュージシャンが参加した。 50歳はあまりにも若すぎた。
4月20日 アンドリュー・ウールフォーク
アース・ウィンド・アンド・ファイアーのトランぺッターで、1973年から1985年、1987年から1993年の黄金期に活躍した。 同僚のフィリップ・ベイリーがグラミー賞を受賞したソロ・アルバムにも参加している。 近年は長い闘病生活を送っていたと伝えられる。 71歳だった。
4月26日 クラウス・シュルツ
ジャーマン・クラウトロックの雄、タンジェリン・ドリームやアシュ・ラ・テンペルのメンバーで、74年の生涯で60枚以上のアルバムを残している。 2022年にリリースされたアルバム "Deus Arrakis" が遺作となった。 死因は公開されていない。
5月17日 ヴァンゲリス
ギリシャ出身のキーボード奏者。 プログレ・ファンなら誰しも、アフロディテス・チャイルド名義の「666」を知っているだろう。 イエスのジョン・アンダーソンとのコラボでも知られている。 79歳で心不全。
5月26日 アラン・ホワイト
キング・クリムゾンに加入するため脱退したビル・ブルフォードの後釜で、イエスに参加した。 ライブ・アルバムの名盤「イエスソングス」がイエスでの初の作品となった。 イエス以前にはセッション・ドラマーとして活躍しており、1969年のトロント・ロック・アンド・ロール・フェスティバルに、ジョン・レノンやエリック・クラプトンらと共にプラスチック・オノ・バンドとして出演した。 来日は2019年のイエスが最後となったが、この時既にリズムが揺れまくっていたので、体力が相当落ちていたのだろう。 死因は発表されていないが、72歳だった。
5月26日 アンディ・フレッチャー
80年代初頭のニュー・ウェーブ全盛期にデビューしたディペッシュ・モードでベースとキーボードを担当していた。 自宅で大動脈解離を発症して急逝したと伝えられている。 まだ60歳だった。
6月5日 アレック・ジョン・サッチ
ボン・ジョヴィの創設メンバーで、1994年の脱退までベースを担当していた。 アレックは1951年生まれで、1962年のジョン・ボン・ジョヴィや1958年のリッチー・サンボラらよりも一回り年長だった。 ボン・ジョヴィ脱退後はオートバイの販売など、音楽活動からは距離を置いていたという。 心不全で、享年70歳だった。
7月5日 マニー・チャールトン
スコットランド出身のハードロック・バンド、ナザレスのギタリスト。 1974年のアルバム "Hair of the Dog" で、ハードロック・バンドとしての名声を獲得した。 ナザレスは現在も続いているが、マニーは1990年に脱退している。 80歳だった。
7月15日 ポール・ライダー
80年代中盤のマンチェスター・ムーブメントの中心的なバンドであるハッピー・マンデーズのベーシスト。 死因は公開されていない。 まだ58歳であった。
8月8日 オリビア・ニュートン=ジョン
オーストラリア出身のイギリス人ポップ・シンガー。 女優としても知られており、1978年の「グリース」でジョン・トラボルタと共演している。 80年代から90年代にかけて多くのヒット曲を飛ばしており、なかでも1981年の "Physical" はビルボード10週連続1位のメガヒットとなった。 1992年に乳がんに罹患したことを公表し、長年の闘病生活を送っていた。 73歳だった。
10月28日 ジェリー・リー・ルイス
1950年代のロックンロールの始祖の一人で、"Whole Lotta Shakin' Goin' On" や "Great Balls of Fire" などのヒットで知られており、ジョニー・ウィンターなど多くのロッカーにカバーされている。 60年代後半にカントリーに転向し、さらに多くのヒット曲を飛ばした。 21世紀に入ってからも "Last Man Standing" や "Mean Old Man" といったアルバムをヒット・チャートに叩き込んだ。 2019年に脳卒中で倒れて療養生活を送っていたものの回復せず、87歳でなくなった。
11月8日 ダン・マッカファーティー
ナザレスは、マニー・チャールトンに続いて、ボーカルのダン・マッカファーティーまで失ってしまった。 ダンは体調を崩し、2013年に脱退していた。 享年76歳。 バンドとしてのナザレスは存続しているが、オリジナル・メンバーはベーシストのピート・アグニューだけになっている。
11月9日 ギャリー・ロバーツ
アイルランド出身のブームタウン・ラッツのギタリスト。 ボーカリストのボブ・ゲルドフがバンド・エイドやライブ・エイドで名声を集める中、バンドとしては停滞し、1986年に解散した。 2013年に再結成し、2020年には36年ぶりのアルバムを制作したものの、72歳で亡くなってしまった。
11月10日 ニック・ターナー
スペース・サイケ・ロックの草分けであるホークウィンドでのキャリアで知られている。 サイケなメイクを施して、サックスとフルートを演奏した。 ソロ・アルバムやゲスト参加したアルバムも数多く残している。 享年82歳。
11月11日 キース・レヴィン
ザ・クラッシュの創設メンバーにして、パブリック・イメージ・リミテッドのギタリスト。 特に "Metal Box" に代表される初期から中期のPILのアルバム制作に多大な貢献をしている。 PIL脱退後はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのプロデュースなどを行っており、2010年にジャー・ウーブルと共にPILに戻っていた。 肝臓癌の合併症で、65歳で亡くなった。
11月21日 ウィルコ・ジョンソン
2013年に膵臓癌を宣告され、10年にわたる闘病を続けてきたウィルコ・ジョンソンが、遂に力尽きてしまった。 闘病中にも関わらず来日を果たし、ライブも行っている。 ウィルコがギターを弾いていたドクター・フィールグッドはパブ・ロックの代表的なバンドで、日本のロック・シーンにも多大な影響を与えている。 75歳だった。
11月25日 アイリーン・キャラ
1983年の映画「フラッシュダンス」の主題歌である "Flashdance... What a Feeling" の大ヒットで知られている。 その後はほとんど音楽活動を行っていない。 享年63歳。
11月30日 クリスティン・マクヴィー
ブルース・ロックのチキン・シャックを経て、1970年にフリートウッド・マックに参加。 半世紀にわたるキャリアを誇る。 初期のフリートウッド・マックのブルース系アルバムの後、1976年にアルバム "Rumours" を大ヒットさせた。 晩年はソロ活動で活躍していたが、2022年11月に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。 79歳だった。
12月4日 マニュエル・ゲッチング
クラウス・シュルツに続いて、アシュ・ラ・テンペルの元メンバーであるマニュエル・ゲッチングが亡くなってしまった。 2000年にはクラウス・シュルツェとアシュ・ラ・テンペルを再結成していた。 享年70歳で、老衰とみられている。
12月6日 ジェット・ブラック
ジェット・ブラックは、ストラングラーズのオリジナル・ドラマーだった。 2020年にはキーボードのデイヴ・グリーンフィールドがコロナで亡くなっている。 パンクスとしては高齢なバンドで、ジェットは84歳だった。
12月16日 リック・アンダーソン
チューブスのベーシストで、創設者のひとり。 70年代のハチャメチャなショーで知られるところになった。 4月17日には、ステージ・アクトやボーカルを担当していたリ・スタイルスも72歳で亡くなっている。 死因は公開されていないが、75歳だった。
12月18日 マーティン・ダフィ
80年代から90年代にかけて活躍したプライマル・スクリームのキーボード。 マーティンはセカンド・アルバムから参加している。 夏のサマソニで来日したばかりだった。 まだ55歳のあまりにも早い死に、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
12月19日 テリ-・ホール
スペシャルズのリード・ボーカルとして、英スカ・シーンを牽引した。 スペシャルズを離れた後も、ファン・ボーイ・スリーなどで活躍していた。 享年63歳で、すい臓がんだった。
来年の今頃、どんな記事を書くことになるか、想像もしたくない。
それより、まず自分自身も、いつまでも爆音を楽しめるように、健康にだけは気を付けたい。
Photo by Chris Niwore on Unsplash
ロバート・プラントの交通事故によって1975年のツアー中止を余儀なくされたレッド・ツェッペリンは、持て余した時間でレコーディングに集中し、翌1976年3月、世紀の名盤 "Presence" をリリースした。
そして1977年に入り、一年半ぶりに全米ツアーを再開する。 しかし "Presence" の曲も引き下げてのツアーにもかかわらず、この年も幸運に恵まれなかった。 4月19日、シンシナティのリバー・フロント・コロシアムでのライブでは、チケットが完売となり、ゲートを強行突破しようとした70名が逮捕された。 6月3日のタンパ・スタジアムでのライブは、激しい雷雨に見舞われて短縮され、暴動が発生して、またも多くの逮捕者を出す結果となった。 7月23日、カリフォルニア州オークランドでは、プロモーターのスタッフが激しく暴行を受けるという事件で、バンドのスタッフと共に、ジョン・ボーナムも逮捕される事態になっている。 そして7月30日、フレンチクォーターのホテルにチェックインした彼らを待っていたのは、ロバートの息子、カラックがウイルス性の疾患で急死したとの知らせだった。 ツアーはまたしても中止となり、さらに2年後の1979年のネブワース出演の直後にジョン・ボーナムが亡くなってしまう。 こうして、この年以降、レッド・ツェッペリンのツアーが再開されることはなくなってしまった。 1977年のツアーでの演奏は、様々な事件に加えて、ロバートやジミーの体調が芳しくないこともあり、今ひとつパッとしない。 とは言え、ツアーを再開したばかりの4月には2時間ほどの長さだったセットリストは、ツアーを続けるにつれてどんどん長くなり、7月には3時間半を超えるようになる。 ブート音源だけでなく、動画が残されているのも1977年の特徴である。 特に最終に近い7月17日のシアトルでのライブは、プロショットのマルチカメラによる動画として、奇跡的に丸ごと記録されている。 また、6月23日のカリフォルニア州イングルウッドでのライブでは、キース・ムーンがステージに乱入し、ロバートがドラム・キットの中へ避難する姿を観ることができる。 なお、今回の1977年のツアーの情報も、ledzeppelin.com を参照させていただいた。 この他、1969年から1975年までのライブと1979年の音源は、既に下記のように整理してあるので、併せて参照いただきたい。
1977年の全米ツアーは、オクラホマ州のオクラホマ・シティで始まった。
初日の4月1日の音源は見つけることができなかったが、ツアー2日めとなる4月3日分はいくつかの音源が残っている。
4月6日から10日までは、シカゴ・スタジアム。
シカゴ2日目の4月7日。
4月9日のシカゴ。
シカゴ最終日の4月10日。
4月19日と20日はオハイオ州シンシナティ。
4月20日、シンシナティ2日目。
その後、南部へ移動する。
4月23日、ジョージア州アトランタ。
4月25日、ケンタッキー州ルイーズヴィル。
4月27日と28日は再びオハイオ州へ戻る。
クリーブランドのリッチフィールド・コロシアム。
4月28日、クリーブランド2日目。
4月30日、ミネソタ州ポンティアック。
5月前半は休暇を取り、中盤から中南部を廻る。
5月18日、アラバマ州バーミンガム。
5月21日、テキサス州ヒューストン。
5月22日、テキサス州フォトワース。
東海岸へ移動し、メリーランド州ランドオーバーでは5月25日から3日間ライブが行われた。
ランドオーバー、5月28日分。
ランドオーバー、5月30日分。
そして6月7日から、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで6晩、ライブが続けられた。
6月8日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月11日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月13日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月14日、マディソン・スクェア・ガーデン。
その後、西海岸でのツアーとなる。
6月19日のサン・ディエゴ。
6月21日からカリフォルニア州イングルウッドでは6晩ものライブが行われた。
6月22日 、イングルウッド。
6月23日、イングルウッド。
6月23日のライブでは、キース・ムーンがステージに乱入する一部始終が動画として残されている。
6月25日、イングルウッド。
6月26日、イングルウッド。
6月27日、イングルウッドでの最終日。
7月17日のシアトルでのライブは、3時間半にわたる動画として記録されている。
7月20日はアリゾナ州テンプ。
7月23日、レッド・ツェッペリンのツアーの最終地となったカリフォルニア州オークランド。
結果的に最終日となってしまった7月24日のオークランドでのライブは "No Quarter" が残されていた。
そしてこの直後、ロバート・プラントの息子が亡くなるという悲劇が到来してしまう。
Photo by Fusion Medical Animatio on Unsplash
2021年に続けて、2022年もライブには散々な年であった。
年の半ばには、東京だけで一日に5,000人を超える感染数が出るほどのコロナ蔓延で、海外のバンドの来日はおろか、ライブハウスも全滅となる事態になってしまった。 営業時間を前倒しにして、入場者も絞り、酒類の提供も控えるという状態で、恐る恐るライブが再開したのは、もう夏も近い6月だった。 フジロックもスーパーソニックも国内の顔ぶれだけで開催はされたものの、NAMIMONOGATARIの杜撰な運営で、フェス自体が大きな批判の的になったのは本当に残念である。 11月、久しぶりの海外のバンドとして、キング・クリムゾンが来日してくれたが、その前後でオミクロン株が国内外で急速に広がり始めた。 彼らは隔離期間を確保するため早めに東京入りしたが、もし一週間遅ければ来日はキャンセルになったであろう。 オミクロン株が広がりつつある日本で、粛々とツアーを続けるキング・クリムゾン。 本当に奇跡のタイミングというしかなく、無神論者の私でも、この幸運には感謝をしたい。
6/6(日) ビルボード東京 Kyoto Jazz Quartet Live
2021年、ようやく観ることがかなった最初のライブは、沖野修也氏の Kyoto Jazz Quartet。 彼がオーナーを務める渋谷のバー The Room の28周年記念イベントであった。 沖野修也氏、吉澤はじめ氏、Mondo Grosso、Kyoto Jazz Massiveの楽曲が全てジャズ・ヴァージョンで再現された。 このライブも2020年から延期されており、また The Room の経営も非常に厳しかったとのことで、アンコールで沖野氏は号泣していた。 客席も皆、泣いていた。
7/4(日) ブルーノート東京 山中千尋トリオ
コロナの感染者数が再び増加傾向に向かった中でのライブで、若手のベースとドラムを従えたピアノ・トリオ。 ところが、開演前にマスクも着けず大声で談笑する多数のバカップル。 プレイヤーには何の非もないが、観客が最悪だった。
8/19(水) ビルボード東京 PUFFY LIVE 2021 “Unplugged”
コロナ対策のため、1stステージの開始時刻が15:00になった、まだ明るいうちからのライブ。 そしてメニューにはアルコール類がなく、すべてノンアル系。 バンドはギター、ベース、ピアノのアコースティック・トリオのアンプラグドで、「これが私の生きる道」「愛のしるし」などのヒット曲の連発した。 さらに10年ぶりとなるアルバムからも新曲が披露された。(当然、買いました。) アンコールは「アジアの純真」のアコースティック版で〆。 この二人の力の抜けたMCが、非常に心地よい。
8/20(金)~22(日) フジロック
2020年に続き、チケットやホテルを押さえておきながら、コロナの状況で直前にキャンセルし、3日間YouTubeの中継で観戦することにした。 海外組はいないものの、カルメン・マキ&OZが目当ての一つだったのに、メンバーの感染で出演見合わせになってしまったことが大きかった。 ネット超しに観たCharは、コードワークがジミヘン、ソロは最近のジェフ・ベックで、やっぱりビール飲みながら、生で観たかったものである。 メイン会場のGreen Stageはステージ前に人が集中しているが、後方はかなり余裕がある様子。 これなら十分にソーシャル・ディスタンスは保てていたようである。 しかし、Red Marqeeは事前に懸念した通りの密になっており、非常にヤバい。 ところで、式典でもないフジロックという場で、いきなり君が代を歌い出したMISIA、いったい何を考えているのか。 数年前に観た、旭日旗と日の丸に囲まれた椎名林檎もクソだったが、これは最低最悪、キング・オブ・クソである。 現場にいたら、たぶんペットボトル投げつけて逮捕される可能性もあったので、本当に家にいて良かったと思う。
写真はYouTubeからキャプチャー
9/18(土)~9/19(日) スーパーソニック
本来ならスーパーソニックも両日ともに参加する予定で、チケットもホテルも確保していたのだが、コロナの収束が全然目途が立っていない。 しかも8月末に名古屋で開催されたNAMIMONOGATARIでは超密になったうえ、40人以上の感染者を出すクラスターになってしまった。 スーパーソニックではチケットが2万枚以上販売され、イベントの上限値である5,000人を超えることが確実で、千葉市の後援も取り消されている。 こうした状況の中で、主催者から払い戻し可能との連絡が着たため、フジロックに続いて、残念ながら全ての予定をバラすことにした。 きゃりーぱみゅぱみゅやPerfumeを観たかったが、仕方がない。
9/23(木) オアシス ネブワース1996(映画)
オアシスの1996年のネブワースでのライブ映画が、期間限定で急遽日本でも上映されることになった。 DVDも販売されるとことだが、これは大画面・大音量で観るしかないので、初日のチケットを確保。 26年前の25万人にのぼる観客といっしょに、マスクを着けたままシンガロング。 いったいいつになったら、また生でこうした体験ができるのか。 ガラ隙の映画館で泣けてきた。
10/1(金) ビルボード東京 Char
緊急事態宣言が解除された初日、しかも台風が関東に接近している最中であった。 しかし2021年になって初めて観る、バンド構成のロックのライブなので、這ってでも行ってやろうと思った。 そもそもフジロックで観るはずだったのだ。 ライブは18時開演だったが、ビルボードにしては珍しく、90分を超える長尺になった。 アンコールは、"Smoky"を含めて2回。 久しぶりに爆音のライブを堪能した。
10/1(金) ビルボード東京 dip in the pool
緊急事態宣言が開けて一週間目。 80年代に聴いていた dip in the poolを初めてライブで観る。 甲田益也子さんと木村達司さんに加え、ヴィブラフォンも加えたメンバー6名によるバンド編成である。 Charに続いて、今回もアンコールが2回だった。 ライブをストリーミングで流していたが、2回目のアンコールはストリーミングを停止し、ライブ会場の客にだけ聴かせる趣向となっていた。 こんな時に足を運んだ観客への感謝だったのだろう。 ありがたい心意気である。
11/13(土) Zepp Haneda カルメン・マキ&OZ
2021年になって初めての、爆音ライブである。 やっぱりライブはこうでなくてはならない。 本人たちもフジロック出演が中止になったこと、ツアー最終日であったこともあり、渾身の演奏であったと思う。 一曲目は「6月の誌」で始まり、途中で30分の休憩をはさむ二部形式ながら、2時間以上の演奏を繰り広げてくれた。 アンコールはお約束通り「私は風」で、マスクを着用しながら心の中での合唱である。 さらに入場者全員に、2020年のライブから収録した「閉ざされた街」の非売品CDが配布された。 早くまた爆音ライブの日々を取り戻したいものだ。
余談であるが、会場のZepp Hanedaは名前の通り羽田空港に隣接しており、入場待ちの列の真上を何度も飛行機が離陸していった。
京浜急行に乗ってしまえば、横浜からわずか20分で訪れることができる面白い場所である。
11/27(土) 東京国際フォーラム King Crimson
キング・クリムゾンが3年ぶりに来日した。 この2年間、コロナ禍で海外アーティストの来日が全て中止になったため、本当に久しぶりの大がかりなライブである。 トニー・レヴィンのツイートやブログによると、11月18日に来日してから、ホテルで10日間の隔離生活を送っていたとのこと。 この前後から、再びオミクロン株が蔓延したことを考えると、奇跡のようなライブだ。
セットリストは、ファースト・アルバムから全ての時代に渡り、満遍なく選曲された完璧なものであった。
<一部>
初日には Larks' Tongues in Aspic II が演奏されなかったことが残念ではあるが、彼らを観られただけでいい。
ところで、ロバートはジャッコにかなりの部分のギターを任せており、またジャッコの歌い方もグレッグ・レイクやジョン・ウェットンを意識したものに聴こえた。 いまやロバートやトニーと並んで、ジャッコもバンドの屋台骨として欠かせないメンバーとなった。
12/29(水) ビルボード東京 岸谷香
毎年年末恒例の岸谷香さんのビルボード。 今年はバンド "Girls" ではなく、チェリストの江口心一氏とのデュオとなった。 岸谷さんは、ピアノにギターにと持ち替えて、アコースティックなセットで、プリンセス・プリンセス時代のものも含め、多くの名曲を聴かせてくれた。 いろいろなことがあった一年も、彼女のステージを観ると、また来年も頑張ろうという気持ちになってくる。
岸谷香さんのライブを観た12月29日、東京のコロナ感染者は76名となり、再び感染拡大の様相を見せ始めている。
何とか感染を抑え込んで、2022年こそライブ三昧の日々を取り戻せないものだろうか。
Photo by Simon Weisser on Unsplash
毎年この季節に続けている企画であるが、かなり憂鬱な作業である。
2020年は新年早々、ニール・パートが亡くなったと思ったら、2021年はいきなりティム・ボガートとシルヴェイン・シルヴェインだ。 (まったくの私事であるが、私の誕生日でもあった。まったく何という年だ。) しかも秋にはチャーリー・ワッツが逝ってしまった。 ローリング・ストーンズは不死身だと思い込んでいたが、違ったのか。 本当に何ということだ。(以下、敬称略) (最終更新 2021年12月31日 18:00)
1月13日 ティム・ボガート
泣く子も黙るBB&Aのベーシスト。 唸りまくるベースで、ロック界に大きな影響を残した。 BB&Aの結成前には、ヴァニラ・ファッジでカーマイン・アピスとリズム隊を務め、さらにカクタスで活躍した。 享年76才。
1月13日 シルヴェイン・シルヴェイン
ニューヨーク・ドールズで、ジョニー・サンダースと共にギターを担当した。 死因は癌で、69才だった。 既にジョニー・サンダース、アーサー・ケイン、ジェリー・ノーランが亡くなっており、これで残されたメンバーはデヴィッド・ヨハンセンだけになってしまった。 ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンのステージ・ネームは、彼がファンだったシルヴェイン・シルヴェインから採られたのは有名な話。
1月16日 フィル・スペクター
60年代から「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる分厚い音創りで知られたプロデューサー。 ビートルズの「レット・イット・ビー」も担当したが、ポールに無断で "The Long And Winding Road" にストリングスやコーラスを盛りつけてしまい、ポールを激怒させた。 晩年は殺人罪で収監され、カリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設でコロナに感染して亡くなった。 81才。
1月29日 ヒルトン・ヴァレンタイン
アニマルズのギタリストで結成メンバーの一人。 1994年に「ロックの殿堂」入りを果たしている。 死因は明かされていない。 享年77歳だった。
2月9日 チック・コリア
リターン・トゥ・フォーエヴァーでロック側からのファンも多い、ジャズ・ピアニスト。 2011年に、ジャン・リュック・ポンティを加えたメンバーで来日している。 上原ひとみとのデュオなど、無数のアルバムを残した。 79才で癌で亡くなった。
3月2日 バニー・ウェイラー
ザ・ウェイラーズのオリジナル・メンバーで、ボブ・マーリーやピーター・トッシュらと活動していた。 脳卒中のため73才で亡くなった。
3月4日 アラン・カートライト
プロコル・ハルムのベーシスト。 1972年に加入し、アルバム「プロコルズ・ナインズ」を最後に、オリジナル・メンバーのクリス・コッピングと再度交代した。 2020年に胃癌と診断されていた。 享年75才。
3月8日 ジェイムス・マック・ガウ
フランスのプログレ・バンド、マグマのギタリストで、1997年に加入し2021年まで活動を続けていた。 2010年にフジロックへ出演し、2015年にはバンド単独で来日を果たしている。 脳腫瘍で、まだ52才だった。
4月3日 ラルフ・シュケット
トッド・ラングレンが率いるユートピアのキーボード担当。 1973年から活動していたが、2018年に健康状態が悪化し、ツアーから離脱していた。 死因は明かされていない。 享年73才。
4月20日 レスリー・マッコーエン
一世を風靡したベイ・シティ・ローラーズのボーカリスト。 アラン・ロングミュラーやイアン・ミッチェルも既に鬼籍に入っている。 心臓発作で65才で亡くなった。
5月7日 タウニー・キティン
ホワトスネイクの "Is This Love" のPVや、ラットのジャケ写で有名になったアメリカの女優。 心不全で60才を前に亡くなってしまった。
6月26日 ジョニー・ソーリンガー
1999年から2015年まで、スキッド・ロウのリード・ボーカルを務めていた。 まだ55才だった。 肝臓障害の悪化。
7月4日 リック・レアード
アイルランド出身のベーシストで、バークレー入学のために渡米し、ジョン・マクラフリンとオリジナル・メンバーとしてマハヴィシュヌ・オーケストラを結成を結成し、1973年までメンバーであった。 解散後は、チック・コリアやスタン・ゲッツらと活動をしている。 80才だった。
7月14日 ジェフ・ラバー、ゲイリー・コルベット
シンデレラの中心メンバーで日系のギタリストのジェフ・ラバーと、キーボードのゲイリー・コルベットが、同じ日に亡くなった。 ジェフの死因は明かされていないがまだ58才、ゲイリーは肺癌で62才だった。
7月17日 ロビー・スタインハート
アメリカン・プログレの雄のカンサスの中心メンバーで、ヴァイオリンとボーカルを担当していた。 死因は不明。 享年71才。
7月28日 ダスティ・ヒル
ZZトップのベーシスト。 腰の痛みを訴えて7月のライブをキャンセルし、72才でそのまま帰らぬ人となった。 ZZトップは、サポート・メンバーを迎えて、ツアーを継続している。
8月24日 チャーリー・ワッツ
改めて言うことはない。 正直言って、この人たちが死ぬことはないと思い込んでいた。 ローリング・ストーンズのメンバーもやっぱり人間だったのである。 80才。合掌。
8月29日 ロン・ブッシー
アイアン・バタフライのオリジナル・メンバーで、ドラマー。 17分にも及ぶ "In-A-Gadda-Da-Vida" で知られている。 何回も解散と再結成を繰り返してきたが、ロンは最後までオリジナル・メンバーとしてバンドをけん引してきた。 食道癌で79才だった。
9月21日 リチャード・H・カーク
インダストリアル・ミュージックの雄、キャバレー・ヴォルテールの創設メンバー。 1994年に活動を停止していたが、2020年に26年ぶりとなるアルバムをリリースしたばかりだった。 65才で、死因は公表されていない。
11月6日 テレンス・アストロ・ウィルソン
イギリスのレゲエ・バンド UB40 で、1979年から2013年の間、ボーカル、パーカッション、トランペットを担当していた。 死因は「短い期間の病」とだけ公開されている。 享年64才。
11月11日 ジョン・グッドソール
ブランドXのギタリストで、アトミック・ルースターやビル・ブラッフォードとの共演でも知られている。 パトリック・モラーツとのツアーを行ったこともあった。 68才で、死因は未公表。
11月18日 ミック・ロック
ロック・フォトグラファー。 クイーン、デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、ルー・リードなどの広く知られた多くの作品を残した。 72才だった。
12月2日 リチャード・コール
レッド・ツェッペリンのツアー・マネージャーを長年務めていた。 バンドのメンバーとは不仲で、解散直前の1980年、追われるように解任されていた。 それでもロバート・プラントらは、追悼の意を表明している。 75才。
12月10日 マイク・ネスミス
モンキーズのオリジナル・メンバーで、ボーカルとギターを担当していた。 直前の11月までツアーに出ていたが、カリフォルニアの自宅で心不全により亡くなった。 78才だった。
何十年も見続けてきた風景が、この数年、次々と書き換わってしまっている。
2022年は、こんな記事のネタが少ないことを願わずにはいられない。.
Photo by Fedor on Unsplash
10月15日、ビートルズの最後のアルバム「レット・イット・ビー」のスペシャル・エディションのボックス・セットがリリースされた。
オリジナルのリリースは1970年なので、ちょうど50年目ということにはならず、「50周年記念盤」にはならなかったが、いずれにしても半世紀ぶりに曰くつきの音源が公開されたことになる。 ビートルズのアルバムで巨大ボックス・セットとしてリリースされるのは4作目になり、2017年の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、2018年の「ホワイト・アルバム」、2019年の「アビー・ロード」に続くものである。 いずれも非常に大きなセットだったが、今回の「レット・イット・ビー」もディスク6枚と、100ページを超えるハードカバーのブックレットで構成される大がかりなものとなっている。
日本盤の裏面では、内容の構成が分かる。
なお内容物は、動画でも紹介されている。
今回のセットには、ポスターや絵葉書などは着いておらず、ブックレットとディスクを収めた2つのハードカバーで構成されている。
しかし、ブックレットの写真は感涙もの。
また、日本盤には、ポールのコメントや、各曲の詳細を解説したライナーが付属している。
肝心のディスクだが、オリジナルのリミックスに加え、デモやリハーサルの音源などから構成されている。
そして驚くべきことに、ボーナス・トラックも含めてボックス・セットに収録されている57曲が、全曲フル・コーラスで公開された。
57曲が試聴できるYouTubeのリンクは、ここから。 さて「レット・イット・ビー」といえば、ポール・マッカートニーがフィル・スペクターによるオーヴァーダビングを毛嫌いしていたことを思い出さずにはいられない。 ポール・マッカートニー自身、ライナーのまえがきで、この点に触れている。 ぼくらがつくったアルバムは、最後の仕上げのために、レコード・プロデューサーのフィル・スペクターに手渡された。
既に半世紀の時間が流れたためか、ポールは言葉を選んで穏やかな言い回しをしているが、ケヴィン・ハウレットによる回想の中では、当時のポールの態度に関して、非常に強い言葉が並んでいる。
1970年4月1日にオーケストラのオーヴァーダブがおこなわれた時点で、ポールはまったくそうした事態を把握していなかった。
その「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」だが、ボックスにはオリジナル・アルバムのものと、デモ版を聴くことができる。
この両方を聴けば、ビートルズのメンバーの手によらないボテボテのアレンジが、フィル・スペクターによって加えられたことがよくわかる。
もっとも、既に2003年にリリースされたアルバム「レット・イット・ビー...ネイキッド」でも、フィル・スペクターによるアレンジを徹底的に排除してリミックスされており、制作の時点でポールが望んでいたであろう音を聴くことができる。
今回のボックス・セットは誰にでもお勧めできるものではないが、「ネイキッド」と併せて歴史的価値の高い資料となった。
写真はSweet Virginiaの動画からキャプチャー
2021年8月24日、チャーリー・ワッツが亡くなった。
チャーリー、そしてローリング・ストーンズの偉大さや業績について、私ごときが何か述べるのはあまりにも僭越すぎるので、せめてチャーリーの最後のライブの姿を記録しておくことにする。 2019年8月30日のマイアミ、ハード・ロック・スタジアムでのライブで、セットリストは以下の通り。 こちらは Setlist.com から引用させていただいた。 Jumpin' Jack Flash
ライブの動画は "Before They Make Me Run" 以外の全ての曲を集めることができた。
オーディエンス録画ばかりなので、粗いのは仕方がない。
Jumpin' Jack Flash
It's Only Rock and Roll
Tumbling Dice
Out of Control
Under My Thumb
You Can't Always Get What You Want
Sweet Virginia
Dead Flowers
Sympathy For The Devil
Honky Tonk Woman
You Got the Silver
Miss You
Paint it Black
Midnight Rambler
Start Me Up
Brown Sugar
Gimme Shelter
(I Can't Get No) Satisfaction
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