Photo by Alexander Shatov on Unsplash 10月15日の午後、ツイッターの二要素認証のための携帯の番号を変更したらログインできなくなってしまった。 メールアドレス、電話番号、ユーザーID、パスワードを入力するところまでは通過するものの、ここでスマホのSMSに届くはずの認証コードが来ない。 これは困ったことである。 「ツイッター 二要素認証 できない」でググってみると、解決策を解説したいくつかのサイトが表示された。 一例として、KDDIのサイトでは以下のような原因が列挙されている。 電話番号を誤って入力した その可能性は否定できないが、今となってはどうにもならない。 キャリアでエラーが発生している 他のサービスの二要素認証は通るので、これは大丈夫でしょう。 Twitterで問題が発生している これはユーザー側ではどうしようもない。 国際SMSとナンバーポータビリティーの相性問題が起きている 他のサービスでも「+81」で始まる番号を登録しているのに、問題は発生していない。 電波状況が悪い 4GもWifiもバリバリ繋がっているので、あり得ない。 そして、同じサイトで、対処法もガイドしてくれているのだが、 携帯電話番号やスマートフォンの状態を確認する ツイッター以外はまったく問題ありません。 受信拒否設定をチェックして解除する チェックしたところ、特に着許否設定はしておらず。 とりあえず待ってみる 30分待ってもダメでした。 バックアップコードを使う 二要素認証を設定する際に、バックアップコードをメモ書きしておかなかった。 これは私の大失態。 認証アプリを活用する 認証アプリとの連携も、二要素認証の設定時にやっておく必要があったので、今更どうにもならない。 そうなると、もはやツイッターのサポートに解決を依頼するしかない。 サポートへ連絡を送ると、30分くらいで、次のようなメールが着た。 早さは中々である。 しかし、ここからは英語。 Your phone number (+8180xxxxxxxx) has been added to your account @JH1LPZ_DXCC. 番号を追加してくれたので、解消するはずである。 しかし、引き続き認証コードは飛んでこない。 そして、追加のメールが来た。 When you enrolled in login verification from your device, did you generate a backup code? すみません。バックアップコードを記録してなかったんです。 同じメールで、 If you’ve tried the above options and still need help accessing your account, please reply to this email for further assistance. とのことなので、 I've changed my phone for two-factor authentication と、状況を整理して送信。 数日経った後、18日の朝、進展があった。 ツイッターから次のようなメールが着たのである Let’s try turning off login verification to help you regain access to your account. 「いったん二要所認証を解除しよう。本人確認がしたいから、ログインのプロセスを実効してみてくれ。こちらに認証コードが飛んでくれば、あんたが本人であることが証明される。」といったところか。 早速、ログインの手順を一通り流して、その旨を知らせたことろ、1時間半くらいで「二要素認証を外したから、ログインして再設定してみてくれ」との連絡があり、無事ログイン可能になった。 私自身、グローバルなサポートセンターのマネジメントの仕事をしたことがあるので、無償サービスで3日目に解決して、チケットをクローズできたのは、一般に早いほうだと評価することができる。
願わくば、凍結やロックに対する異議申し立てのプロセスも、もう少し迅速に対応してもらえないだろうか。
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Photo by Egor Myznik on Unsplash 安倍晋三が銃撃されて死亡してから一か月以上が経ち、この間に当の安倍晋三をはじめ、萩生田光一や山際大志郎など数多くの自民党議員と統一教会との癒着が明らかになった。 首相・岸田はこのイメージを払拭すべく内閣改造を図ったが、結局、改造後の閣僚の大多数が統一教会と何等かの関係を持っていたという体たらくである。 与党である自民党と反社会的組織との濃厚な関係は、当然ながら徹底的に追及されなければならないし、また今後も追及は続くであろう。 一方、政権与党に対して寄生虫のようなポジションを取り続ける維新もまた、統一教会とのベタベタな関係が判明している。 ここでは、報道で明らかになった維新と統一教会の関係を整理しておきたい。 維新は、7月下旬に国会議員62人を対象に調査を行い、その結果、13人が統一教会やその関連団体と関係があったことを発表した。 「世界平和統一家庭連合」、旧統一教会をめぐり、日本維新の会は国会議員62人を対象に行った調査の結果、関連団体などと何らかの関係があったことが分かった13人の氏名を公表しました。 FLASHによると、13人の名前と当時の役職、および統一教会との関係は次の通り。 【日本維新の会、旧統一教会との関係者リスト】 日本維新の会・共同代表の馬場伸幸氏が、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の新聞「世界日報」のインタビューに応じたことをハフポスト日本版に対して認めた。 日本維新の会の国会議員13人が、反社会的活動で問題となってきた旧統一協会(世界平和統一家庭連合)と何らかのかかわりを持っていたことが30日、藤田文武幹事長の記者会見で明らかになりました。 柴田参議院議員は、みんなの党所属だった2012年2月、オープンカレッジで講演。さらに、日本維新の会に所属を移していた2015年、オープンカレッジに祝電を送っていました。 さらに、大阪維新でも、首長や地方議員ら16人が統一教会と接点を持っていたことを発表している。 大阪維新16人旧統一教会と接点 会合参加や祝電、関係公表 こうした自主的な調査の後も、維新の国会議員である石井苗子や松沢成文、音喜多駿らと統一教会の癒着が続々と明らかになっている。 日本維新の会は5日、石井苗子参院議員(比例)が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体のイベントに参加していたと発表した。 旧統一教会の「関連団体」とのかかわりについては、石井苗子参議院議員、小野泰輔衆議院議員が関連団体イベントに参加したことがありました。 日本維新の会は8日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係をめぐり、松沢成文参院議員が関連団体の会合に出席し、祝電を送るなどしていたと発表した。 さらに地方議員でも、統一教会との濃厚な関係が次々と発覚している。 堺市議の池田かつし氏は2014年12月6日、SNSに《馬場伸幸衆議院議員候補とともにWFWPチャリティークリスマスパーティーに出席しました》と書き込み、男性ががマイクを握り、挨拶している写真を添付していた。 大阪市議の大内啓治は、過去に信者であったことを申告していなかった。 大阪維新の会の大内啓治大阪市議(71)が、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体の会合に参加していたのに、内部調査に対し申告していなかったことが19日、分かった。 維新の会関係者が語る。 「党内ではいまだに『ガチ信者』という認識です。」 こうした中、参院議員の鈴木宗男は開き直る始末である。 日本維新の会の鈴木宗男参院議員(74)「旧統一教会に加藤氏が祝電を打ったことを立憲民主党、共産党の議員があたかも問題があることのように質問しているが、お門違いではないか」 まったくどうしようもない。
こうした反社とベタベタな連中は公職に就く資格はない。 直ちに辞職し、公民権を剥奪されるべきであろう。
Photo by engin akyurt on Unsplash
【注意】引用したツイートには、激しい差別表現が含まれます。
7月8日、元首相の安倍晋三が銃撃され、ほぼ即死状態で亡くなった。 その場で逮捕された銃撃犯は、世界平和統一家庭連合(いわゆる旧統一教会)に家庭を破壊され、その恨みから、教会の広告塔を演じていた安倍を襲撃したと伝えられている。 犯行に至る動機や心理は今後の捜査や公判を待つしかないが、実は本人である可能性が高いツイッター・アカウントが残されていた。 ツイートは襲撃の3年弱前に遡る2019年10月に始まり、襲撃の前週の2022年6月30日を最後に途絶えている。 このアカウントが果たして本人のものであるか、断定するには、書き込みのIPを取得して照合しなければならない。 しかし、報道されている内容を裏付けるようなツイートをいくつも残しているのも事実である。
安倍襲撃を予告するかのような書き込みもある。
そして、心の底から呪うかのような旧統一教会の批判。
ところが、安倍晋三に対しては、全面否定するわけでもなく、政治的な姿勢を評価するような微妙な距離感をとっている。
いや、むしろ安倍政権の政治姿勢に極めて近いと言うべきかもしれない。
吐き気を催すような嫌韓ツイートの数々。
旧統一教会の被害者であったことを差し引いても、こうした嫌韓の論調は異常なレベルである。
彼の差別的な姿勢は、先住少数民族としてのアイヌの権利否定や、反フェミニズムのツイートにも表れている。 パワハラを訴える人も全面否定。
極めつけは、彼の憲法観である。
どう見ても、自民党と完全に一致。
もちろん、集団的自衛権や日米安保条約にも大賛成である。
このツイッター・アカウントの人物は、政治的には決して「反安倍」ではなかった。
むしろ安倍政権や自民党に極めて近い考えの持ち主だったと言えよう。 Photo by Kilian Karger on Unsplash 5月31日、札幌地裁が北海道電力に対し、泊原発の1~3号機の運転差し止めを命じた。 判決の核は「津波防護施設が存在せず、津波に対する安全基準を満たしていない」という事実であり、北海道電力の怠慢でしかない。 北海道電力は、原子力規制委員会が要請した資料もまともに提出せず、更田委員長に「十分な対応がみられず数年が経った」と指摘されるほどの体たらくである。 札幌地裁の判決は、きわめて当然の判断と言えよう。 ところで、この判決直後、ネトウヨたちが一斉に判決を揶揄するツイートをし始めたのだが、何かおかしい。 よく見ると「泊(とまり)」ではなく「柏(かしわ)」原発になっているのである。 それも一人や二人ではなかった。 確かに原発の立地は読み方が難しいものが多い。 東通(ひがしどおり)、女川(おながわ)、柏崎刈羽(かしわざきかりわ)、志賀(しか)、大飯(おおい)、川内(せんだい)あたりは、ネトウヨの頭では読めないのも無理からぬ話である。 しかし読み方はともかく、どうやったら「泊(とまり)原発」を「柏(かしわ)原発」と誤記できるのだろう。 かな入力の誤変換はあり得ない。 考えられるのは
原発の話題で揶揄するにしても、あまりにも愚かである。 なお泊原発は2012年5月5日に停止し、既に10年以上稼働していない。 電力を供給していないのだから、ネトウヨたちの「柏(かしわ)原発を停めたらクーラーが停まる」という戯言は、完全に言いがかりにすぎない。 こういう底辺ネトウヨたちがバカなのは既定の事実であるが、論客を自称する人物まで「柏(かしわ)原発」をやらかしているのには驚かされる。 この御仁も10年以上にわたって原発問題に関する嫌味を垂れ流し続けているわけだが、「泊(とまり)」を「柏(かしわ)」と思い違いしたままという程度の認識であるのが露呈してしまった。 興味がないなら、せめて黙っていりゃいいのにね。 なお、元祖「柏(かしわ)」は、こちらの方の2018年のツイート(現在はアカウント剥奪)のようである。 さもありなん。 このように、愛国者ぶるくせにネトウヨが日本語をまともに使えない現象に対して、何らかの名称を付けることはできないだろうか。 とりあえず「かしわ問題」とでもしておけばいいかもしれないが、次の事例も捨てがたい。 大阪知事・松井の発言である。 「更迭」ではなく「更送」。
これも「こうてつ」との読み方を知っていれば、誤変換しようがないものである。 むしろどうしたら「更送」と打ち込めたのか、教えてほしいものだ。 「更に」と打ち込んでから「送る」と加えてカナを削ったんでしょうか。 頭の悪い人たちの行動を理解するのは、本当に難しい。 ここ数年、渋谷川など、暗渠となって都内を流れる川が話題になっている。 最近では週刊文春の記事がていねいに取材されており、たいへん興味深かった。 都内の暗渠は有名だが、多摩地区の暗渠なんか誰も知らないし、興味もないだろう。 しかし我が地元にも恩田川、そして鶴見川へ連なる支流が暗渠となって存在しているのである。 田園都市線の「すずかけ台」駅と「南町田グランベリーパーク」駅の間に、暗渠の出発地点となる源流がある。 まさに田園都市線の土手の元である。 この付近は宅地造成が始まる1970年ころまで一面の田んぼだった所だ。 暗渠になる以前の小川にはザリガニやドジョウが豊富に生息しており、春にはカエルの産卵地になっていたことを記憶している。 ウナギが採れることもあったらしい。 源流から200mほど。 親子連れでにぎわうつばき公園の周囲を直角に曲がり、暗渠が続く。 つばき公園からさらに徒歩数分で、やなぎ公園に到着。 ここでは数メートルの区間だけ、水の流れが現れる。 きれいな水だ。 やなぎ公園を抜けると、再び暗渠となり、住宅の間を潜るように流れが続く。 そして、どうやらこの先が行き止まりになっているもよう。 近づいてみると、ここから先は入れないようになっていた。 行き止まりの反対側。 およそ50mくらいの区間が封鎖されていた。 防犯上、人の出入りがないほうが良いのだろう。 ここからまた公道に沿って延々と暗渠が続く。 このあたり一帯も、以前は田んぼだった。 そして、またしても行き止まり。 しかし簡単な柵と標識が設置されているだけで、徒歩の通行は禁じられていない様子。 この真横から杉山神社の参道が見える。 普段は実に静かだが、元旦の初もうでには30分待ちになるくらい人が集まる場所である。 さらに100mほど進むと、暗渠は五差路の地下を斜めに突っ切って、姿を現すようになる。 暗渠ではなく、公道と住宅の間を小川となって流れる。 本来の姿である 川沿いの住宅は、道路まで橋をかける仕掛け。 道の両側は桜並木になっており、春先には数kmにわたって桜のトンネルが出現する、素晴らしい所である。 水辺に根付いて、桜の成長にもよいのだろう。 横浜線の線路とぶつかるところは、トンネルとなっていた。 長年住んでいても気にしたことすらなかったが、こんな仕組みになっていたのか。 トンネルを超えると、別の支流と合流し、立派な川らしくなる。 そして恩田川へ流れ込む。 恩田川の本流も、きれいな水流だ。 恩田川も、川の両岸が桜で埋め尽くされており、桜の季節は圧巻の風景となる。
毎年、多くの花見客であふれる、地域有数の桜の名所である。 恩田川を下ると鶴見川に合流し、川崎で東京湾へ流れ込む。 暗渠でなければ、今でも生き物たちが息づいていたかもしれない。
Photo by Chris Niwore on Unsplash
ロバート・プラントの交通事故によって1975年のツアー中止を余儀なくされたレッド・ツェッペリンは、持て余した時間でレコーディングに集中し、翌1976年3月、世紀の名盤 "Presence" をリリースした。
そして1977年に入り、一年半ぶりに全米ツアーを再開する。 しかし "Presence" の曲も引き下げてのツアーにもかかわらず、この年も幸運に恵まれなかった。 4月19日、シンシナティのリバー・フロント・コロシアムでのライブでは、チケットが完売となり、ゲートを強行突破しようとした70名が逮捕された。 6月3日のタンパ・スタジアムでのライブは、激しい雷雨に見舞われて短縮され、暴動が発生して、またも多くの逮捕者を出す結果となった。 7月23日、カリフォルニア州オークランドでは、プロモーターのスタッフが激しく暴行を受けるという事件で、バンドのスタッフと共に、ジョン・ボーナムも逮捕される事態になっている。 そして7月30日、フレンチクォーターのホテルにチェックインした彼らを待っていたのは、ロバートの息子、カラックがウイルス性の疾患で急死したとの知らせだった。 ツアーはまたしても中止となり、さらに2年後の1979年のネブワース出演の直後にジョン・ボーナムが亡くなってしまう。 こうして、この年以降、レッド・ツェッペリンのツアーが再開されることはなくなってしまった。 1977年のツアーでの演奏は、様々な事件に加えて、ロバートやジミーの体調が芳しくないこともあり、今ひとつパッとしない。 とは言え、ツアーを再開したばかりの4月には2時間ほどの長さだったセットリストは、ツアーを続けるにつれてどんどん長くなり、7月には3時間半を超えるようになる。 ブート音源だけでなく、動画が残されているのも1977年の特徴である。 特に最終に近い7月17日のシアトルでのライブは、プロショットのマルチカメラによる動画として、奇跡的に丸ごと記録されている。 また、6月23日のカリフォルニア州イングルウッドでのライブでは、キース・ムーンがステージに乱入し、ロバートがドラム・キットの中へ避難する姿を観ることができる。 なお、今回の1977年のツアーの情報も、ledzeppelin.com を参照させていただいた。 この他、1969年から1975年までのライブと1979年の音源は、既に下記のように整理してあるので、併せて参照いただきたい。
1977年の全米ツアーは、オクラホマ州のオクラホマ・シティで始まった。
初日の4月1日の音源は見つけることができなかったが、ツアー2日めとなる4月3日分はいくつかの音源が残っている。
4月6日から10日までは、シカゴ・スタジアム。
シカゴ2日目の4月7日。
4月9日のシカゴ。
シカゴ最終日の4月10日。
4月19日と20日はオハイオ州シンシナティ。
4月20日、シンシナティ2日目。
その後、南部へ移動する。
4月23日、ジョージア州アトランタ。
4月25日、ケンタッキー州ルイーズヴィル。
4月27日と28日は再びオハイオ州へ戻る。
クリーブランドのリッチフィールド・コロシアム。
4月28日、クリーブランド2日目。
4月30日、ミネソタ州ポンティアック。
5月前半は休暇を取り、中盤から中南部を廻る。
5月18日、アラバマ州バーミンガム。
5月21日、テキサス州ヒューストン。
5月22日、テキサス州フォトワース。
東海岸へ移動し、メリーランド州ランドオーバーでは5月25日から3日間ライブが行われた。
ランドオーバー、5月28日分。
ランドオーバー、5月30日分。
そして6月7日から、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで6晩、ライブが続けられた。
6月8日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月11日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月13日、マディソン・スクェア・ガーデン。
6月14日、マディソン・スクェア・ガーデン。
その後、西海岸でのツアーとなる。
6月19日のサン・ディエゴ。
6月21日からカリフォルニア州イングルウッドでは6晩ものライブが行われた。
6月22日 、イングルウッド。
6月23日、イングルウッド。
6月23日のライブでは、キース・ムーンがステージに乱入する一部始終が動画として残されている。
6月25日、イングルウッド。
6月26日、イングルウッド。
6月27日、イングルウッドでの最終日。
7月17日のシアトルでのライブは、3時間半にわたる動画として記録されている。
7月20日はアリゾナ州テンプ。
7月23日、レッド・ツェッペリンのツアーの最終地となったカリフォルニア州オークランド。
結果的に最終日となってしまった7月24日のオークランドでのライブは "No Quarter" が残されていた。
そしてこの直後、ロバート・プラントの息子が亡くなるという悲劇が到来してしまう。
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町田市議会議員・市長選挙の投票が2月22日に予定されている。
告示は一週間前の2月13日で、市議会議員36人の議席に向けて、既に駅前での街宣やポスティングなどが始まった。 様々な方面からの情報によると、日本維新の会(以下「維新」)は、市長選での独自の候補者の擁立に加え、市議会議員の候補者2名も公認するようである。 関東地方に住んでいると、幸い現在のところあまり維新の活動は目に入ってこないが、既に"不祥事のデパート「維新」やらかしリスト" でまとめたように、維新の議員たちは全国的に数々の不祥事をやらかしている。 地方議員に限っても、公選法違反での逮捕はもとより、傷害や下半身露出まで、ハレンチな事件のオン・パレードである。 首長でも、宅建法違反が露呈したり、市長室に勝手にサウナを設置するなど、やりたい放題だ。 国政にいたっては、カジノを廻る収賄や、公設秘書による殺人未遂など、目を覆わんばかりの惨状である。 いやしくも国政政党を名乗る集団で、ここまでハレンチでハチャメチャなのは、自民党を含めてもさすがに見当たらない。 もはやこれだけでも、なぜ「町田に維新は要らない」のか、説明は尽くされていると言えるだろう。
さて、この2週間ほどの間、維新を廻っていくつかの騒動があった。
一つ目は、菅直人・元首相によるこのツイートである。
これに橋下徹が激しく反応した。
この「ヒットラーへ重ね合わす批判は国際的にはご法度」とのご高説、いったいどこから持ち出したのであろうか。
そんな話は一度も耳にしたことがない。 もちろんナチス式の敬礼などは社会的生命を絶たれるほど「国際的なご法度」であるが、よくもまあテキトーなことを言うものだ。 当然、菅・元首相は言いがかりを撥ねつけた。 当たり前である。
そして、なぜかここで維新の幹事長・馬場が登場。
大勢のメディアを引き連れて菅・元首相の元へ抗議に現れるも、「あなたから抗議を受ける必要はないし、あなたにお応えする必要はありません。お帰りください。」と一刀両断され、すごすごと引き下がる間抜けぶりである。
ところで建前上は、橋下徹は維新から離れていることになっているのではないか?
どうして橋下ではなく、維新の幹事長・馬場が、抗議に現れるのか? 橋下徹が維新と離れている前提であれば、菅・元首相の指摘する通り、馬場の抗議はまったく筋違いと言うしかない。 逆に、未だ維新の関係者であるとの認識に立った抗議なら、彼がテレビに出演しまくっている行為は放送法4条2項の「政治的に公平であること」に抵触するのではないか。 これほど矛盾だらけで、彼らは恥ずかしくないのだろうか。
続いて2月3日、れいわ新選組の大石あきこ・衆議院議員が、橋下徹に名誉毀損で訴えられたことが発覚した。
大石議員のツイートによると、橋下を「たびたび攻撃的な表現行為を繰り返している」ことが訴因だそうである。
これに対して、ツイッター上では「#ファシモトさん」「#パニック訴訟」「#大石あきこ橋下徹に訴えられたってよ」などのタグが拡散し、一時はトレンド入りするような状態になった。
大石議員も、売られた喧嘩を買う気満々の様子である。 なお、橋下徹は過去、有田芳生・参議院議員を被告とする名誉毀損の訴訟を起こしているが、こちらは請求棄却された。
これらの件を通して考えてみると、維新側は菅・元首相も大石議員も強く反撃してこない相手だと舐めていたのではないかとの推定が浮かび上がってくる。
特定の人物に狙いを定めて恫喝を加えてくるのが維新の手口であるが、今回はいずれのケースも強烈な反撃に遭い、ただ間抜けぶりを露呈するだけの結果になってしまった。 こんなことを繰り返していれば、ヒットラーに重ね合わせる批判が出てくるのも当たり前でしょう。
さて、話を町田市の選挙に戻そうと思う。
維新の予定候補者2名のうち一人は、私が在住する南地区を拠点にする現職議員・矢口まゆである。 本人のブログによると、2021年12月に維新に入党したそうだが、その動機についてこんな事を書いている。 もともと、維新は大好きな政党でした。初めて政治に興味を持った5年程前、維新が好きになり、橋下徹さんのオンラインゼミにも入会したほどです。
まったく話にならない。
これだけで、全力をあげて拒絶する十分な理由になるはずだ。 しかし本当に警戒すべきは、こちらの入党理由である。 ともに仕事をする機会が多かった杉並区議会議員の松本議員にも、半年前から維新にお誘いいただいていた経緯もあり、ついに入党する決意にいたりました。
察するに、東京に地盤を持たない維新は、無所属の現職議員の一本釣りを開始したのではないか。
町田市の市議会議員の選挙がその橋頭堡とされるのであれば、断固阻止する必要がある。 維新の候補者には一議席たりとも、いや一票たりとも与えてはならない。
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2021年に続けて、2022年もライブには散々な年であった。
年の半ばには、東京だけで一日に5,000人を超える感染数が出るほどのコロナ蔓延で、海外のバンドの来日はおろか、ライブハウスも全滅となる事態になってしまった。 営業時間を前倒しにして、入場者も絞り、酒類の提供も控えるという状態で、恐る恐るライブが再開したのは、もう夏も近い6月だった。 フジロックもスーパーソニックも国内の顔ぶれだけで開催はされたものの、NAMIMONOGATARIの杜撰な運営で、フェス自体が大きな批判の的になったのは本当に残念である。 11月、久しぶりの海外のバンドとして、キング・クリムゾンが来日してくれたが、その前後でオミクロン株が国内外で急速に広がり始めた。 彼らは隔離期間を確保するため早めに東京入りしたが、もし一週間遅ければ来日はキャンセルになったであろう。 オミクロン株が広がりつつある日本で、粛々とツアーを続けるキング・クリムゾン。 本当に奇跡のタイミングというしかなく、無神論者の私でも、この幸運には感謝をしたい。
6/6(日) ビルボード東京 Kyoto Jazz Quartet Live
2021年、ようやく観ることがかなった最初のライブは、沖野修也氏の Kyoto Jazz Quartet。 彼がオーナーを務める渋谷のバー The Room の28周年記念イベントであった。 沖野修也氏、吉澤はじめ氏、Mondo Grosso、Kyoto Jazz Massiveの楽曲が全てジャズ・ヴァージョンで再現された。 このライブも2020年から延期されており、また The Room の経営も非常に厳しかったとのことで、アンコールで沖野氏は号泣していた。 客席も皆、泣いていた。
7/4(日) ブルーノート東京 山中千尋トリオ
コロナの感染者数が再び増加傾向に向かった中でのライブで、若手のベースとドラムを従えたピアノ・トリオ。 ところが、開演前にマスクも着けず大声で談笑する多数のバカップル。 プレイヤーには何の非もないが、観客が最悪だった。
8/19(水) ビルボード東京 PUFFY LIVE 2021 “Unplugged”
コロナ対策のため、1stステージの開始時刻が15:00になった、まだ明るいうちからのライブ。 そしてメニューにはアルコール類がなく、すべてノンアル系。 バンドはギター、ベース、ピアノのアコースティック・トリオのアンプラグドで、「これが私の生きる道」「愛のしるし」などのヒット曲の連発した。 さらに10年ぶりとなるアルバムからも新曲が披露された。(当然、買いました。) アンコールは「アジアの純真」のアコースティック版で〆。 この二人の力の抜けたMCが、非常に心地よい。
8/20(金)~22(日) フジロック
2020年に続き、チケットやホテルを押さえておきながら、コロナの状況で直前にキャンセルし、3日間YouTubeの中継で観戦することにした。 海外組はいないものの、カルメン・マキ&OZが目当ての一つだったのに、メンバーの感染で出演見合わせになってしまったことが大きかった。 ネット超しに観たCharは、コードワークがジミヘン、ソロは最近のジェフ・ベックで、やっぱりビール飲みながら、生で観たかったものである。 メイン会場のGreen Stageはステージ前に人が集中しているが、後方はかなり余裕がある様子。 これなら十分にソーシャル・ディスタンスは保てていたようである。 しかし、Red Marqeeは事前に懸念した通りの密になっており、非常にヤバい。 ところで、式典でもないフジロックという場で、いきなり君が代を歌い出したMISIA、いったい何を考えているのか。 数年前に観た、旭日旗と日の丸に囲まれた椎名林檎もクソだったが、これは最低最悪、キング・オブ・クソである。 現場にいたら、たぶんペットボトル投げつけて逮捕される可能性もあったので、本当に家にいて良かったと思う。
写真はYouTubeからキャプチャー
9/18(土)~9/19(日) スーパーソニック
本来ならスーパーソニックも両日ともに参加する予定で、チケットもホテルも確保していたのだが、コロナの収束が全然目途が立っていない。 しかも8月末に名古屋で開催されたNAMIMONOGATARIでは超密になったうえ、40人以上の感染者を出すクラスターになってしまった。 スーパーソニックではチケットが2万枚以上販売され、イベントの上限値である5,000人を超えることが確実で、千葉市の後援も取り消されている。 こうした状況の中で、主催者から払い戻し可能との連絡が着たため、フジロックに続いて、残念ながら全ての予定をバラすことにした。 きゃりーぱみゅぱみゅやPerfumeを観たかったが、仕方がない。
9/23(木) オアシス ネブワース1996(映画)
オアシスの1996年のネブワースでのライブ映画が、期間限定で急遽日本でも上映されることになった。 DVDも販売されるとことだが、これは大画面・大音量で観るしかないので、初日のチケットを確保。 26年前の25万人にのぼる観客といっしょに、マスクを着けたままシンガロング。 いったいいつになったら、また生でこうした体験ができるのか。 ガラ隙の映画館で泣けてきた。
10/1(金) ビルボード東京 Char
緊急事態宣言が解除された初日、しかも台風が関東に接近している最中であった。 しかし2021年になって初めて観る、バンド構成のロックのライブなので、這ってでも行ってやろうと思った。 そもそもフジロックで観るはずだったのだ。 ライブは18時開演だったが、ビルボードにしては珍しく、90分を超える長尺になった。 アンコールは、"Smoky"を含めて2回。 久しぶりに爆音のライブを堪能した。
10/1(金) ビルボード東京 dip in the pool
緊急事態宣言が開けて一週間目。 80年代に聴いていた dip in the poolを初めてライブで観る。 甲田益也子さんと木村達司さんに加え、ヴィブラフォンも加えたメンバー6名によるバンド編成である。 Charに続いて、今回もアンコールが2回だった。 ライブをストリーミングで流していたが、2回目のアンコールはストリーミングを停止し、ライブ会場の客にだけ聴かせる趣向となっていた。 こんな時に足を運んだ観客への感謝だったのだろう。 ありがたい心意気である。
11/13(土) Zepp Haneda カルメン・マキ&OZ
2021年になって初めての、爆音ライブである。 やっぱりライブはこうでなくてはならない。 本人たちもフジロック出演が中止になったこと、ツアー最終日であったこともあり、渾身の演奏であったと思う。 一曲目は「6月の誌」で始まり、途中で30分の休憩をはさむ二部形式ながら、2時間以上の演奏を繰り広げてくれた。 アンコールはお約束通り「私は風」で、マスクを着用しながら心の中での合唱である。 さらに入場者全員に、2020年のライブから収録した「閉ざされた街」の非売品CDが配布された。 早くまた爆音ライブの日々を取り戻したいものだ。
余談であるが、会場のZepp Hanedaは名前の通り羽田空港に隣接しており、入場待ちの列の真上を何度も飛行機が離陸していった。
京浜急行に乗ってしまえば、横浜からわずか20分で訪れることができる面白い場所である。
11/27(土) 東京国際フォーラム King Crimson
キング・クリムゾンが3年ぶりに来日した。 この2年間、コロナ禍で海外アーティストの来日が全て中止になったため、本当に久しぶりの大がかりなライブである。 トニー・レヴィンのツイートやブログによると、11月18日に来日してから、ホテルで10日間の隔離生活を送っていたとのこと。 この前後から、再びオミクロン株が蔓延したことを考えると、奇跡のようなライブだ。
セットリストは、ファースト・アルバムから全ての時代に渡り、満遍なく選曲された完璧なものであった。
<一部>
初日には Larks' Tongues in Aspic II が演奏されなかったことが残念ではあるが、彼らを観られただけでいい。
ところで、ロバートはジャッコにかなりの部分のギターを任せており、またジャッコの歌い方もグレッグ・レイクやジョン・ウェットンを意識したものに聴こえた。 いまやロバートやトニーと並んで、ジャッコもバンドの屋台骨として欠かせないメンバーとなった。
12/29(水) ビルボード東京 岸谷香
毎年年末恒例の岸谷香さんのビルボード。 今年はバンド "Girls" ではなく、チェリストの江口心一氏とのデュオとなった。 岸谷さんは、ピアノにギターにと持ち替えて、アコースティックなセットで、プリンセス・プリンセス時代のものも含め、多くの名曲を聴かせてくれた。 いろいろなことがあった一年も、彼女のステージを観ると、また来年も頑張ろうという気持ちになってくる。
岸谷香さんのライブを観た12月29日、東京のコロナ感染者は76名となり、再び感染拡大の様相を見せ始めている。
何とか感染を抑え込んで、2022年こそライブ三昧の日々を取り戻せないものだろうか。
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毎年この季節に続けている企画であるが、かなり憂鬱な作業である。
2020年は新年早々、ニール・パートが亡くなったと思ったら、2021年はいきなりティム・ボガートとシルヴェイン・シルヴェインだ。 (まったくの私事であるが、私の誕生日でもあった。まったく何という年だ。) しかも秋にはチャーリー・ワッツが逝ってしまった。 ローリング・ストーンズは不死身だと思い込んでいたが、違ったのか。 本当に何ということだ。(以下、敬称略) (最終更新 2021年12月31日 18:00)
1月13日 ティム・ボガート
泣く子も黙るBB&Aのベーシスト。 唸りまくるベースで、ロック界に大きな影響を残した。 BB&Aの結成前には、ヴァニラ・ファッジでカーマイン・アピスとリズム隊を務め、さらにカクタスで活躍した。 享年76才。
1月13日 シルヴェイン・シルヴェイン
ニューヨーク・ドールズで、ジョニー・サンダースと共にギターを担当した。 死因は癌で、69才だった。 既にジョニー・サンダース、アーサー・ケイン、ジェリー・ノーランが亡くなっており、これで残されたメンバーはデヴィッド・ヨハンセンだけになってしまった。 ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンのステージ・ネームは、彼がファンだったシルヴェイン・シルヴェインから採られたのは有名な話。
1月16日 フィル・スペクター
60年代から「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる分厚い音創りで知られたプロデューサー。 ビートルズの「レット・イット・ビー」も担当したが、ポールに無断で "The Long And Winding Road" にストリングスやコーラスを盛りつけてしまい、ポールを激怒させた。 晩年は殺人罪で収監され、カリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設でコロナに感染して亡くなった。 81才。
1月29日 ヒルトン・ヴァレンタイン
アニマルズのギタリストで結成メンバーの一人。 1994年に「ロックの殿堂」入りを果たしている。 死因は明かされていない。 享年77歳だった。
2月9日 チック・コリア
リターン・トゥ・フォーエヴァーでロック側からのファンも多い、ジャズ・ピアニスト。 2011年に、ジャン・リュック・ポンティを加えたメンバーで来日している。 上原ひとみとのデュオなど、無数のアルバムを残した。 79才で癌で亡くなった。
3月2日 バニー・ウェイラー
ザ・ウェイラーズのオリジナル・メンバーで、ボブ・マーリーやピーター・トッシュらと活動していた。 脳卒中のため73才で亡くなった。
3月4日 アラン・カートライト
プロコル・ハルムのベーシスト。 1972年に加入し、アルバム「プロコルズ・ナインズ」を最後に、オリジナル・メンバーのクリス・コッピングと再度交代した。 2020年に胃癌と診断されていた。 享年75才。
3月8日 ジェイムス・マック・ガウ
フランスのプログレ・バンド、マグマのギタリストで、1997年に加入し2021年まで活動を続けていた。 2010年にフジロックへ出演し、2015年にはバンド単独で来日を果たしている。 脳腫瘍で、まだ52才だった。
4月3日 ラルフ・シュケット
トッド・ラングレンが率いるユートピアのキーボード担当。 1973年から活動していたが、2018年に健康状態が悪化し、ツアーから離脱していた。 死因は明かされていない。 享年73才。
4月20日 レスリー・マッコーエン
一世を風靡したベイ・シティ・ローラーズのボーカリスト。 アラン・ロングミュラーやイアン・ミッチェルも既に鬼籍に入っている。 心臓発作で65才で亡くなった。
5月7日 タウニー・キティン
ホワトスネイクの "Is This Love" のPVや、ラットのジャケ写で有名になったアメリカの女優。 心不全で60才を前に亡くなってしまった。
6月26日 ジョニー・ソーリンガー
1999年から2015年まで、スキッド・ロウのリード・ボーカルを務めていた。 まだ55才だった。 肝臓障害の悪化。
7月4日 リック・レアード
アイルランド出身のベーシストで、バークレー入学のために渡米し、ジョン・マクラフリンとオリジナル・メンバーとしてマハヴィシュヌ・オーケストラを結成を結成し、1973年までメンバーであった。 解散後は、チック・コリアやスタン・ゲッツらと活動をしている。 80才だった。
7月14日 ジェフ・ラバー、ゲイリー・コルベット
シンデレラの中心メンバーで日系のギタリストのジェフ・ラバーと、キーボードのゲイリー・コルベットが、同じ日に亡くなった。 ジェフの死因は明かされていないがまだ58才、ゲイリーは肺癌で62才だった。
7月17日 ロビー・スタインハート
アメリカン・プログレの雄のカンサスの中心メンバーで、ヴァイオリンとボーカルを担当していた。 死因は不明。 享年71才。
7月28日 ダスティ・ヒル
ZZトップのベーシスト。 腰の痛みを訴えて7月のライブをキャンセルし、72才でそのまま帰らぬ人となった。 ZZトップは、サポート・メンバーを迎えて、ツアーを継続している。
8月24日 チャーリー・ワッツ
改めて言うことはない。 正直言って、この人たちが死ぬことはないと思い込んでいた。 ローリング・ストーンズのメンバーもやっぱり人間だったのである。 80才。合掌。
8月29日 ロン・ブッシー
アイアン・バタフライのオリジナル・メンバーで、ドラマー。 17分にも及ぶ "In-A-Gadda-Da-Vida" で知られている。 何回も解散と再結成を繰り返してきたが、ロンは最後までオリジナル・メンバーとしてバンドをけん引してきた。 食道癌で79才だった。
9月21日 リチャード・H・カーク
インダストリアル・ミュージックの雄、キャバレー・ヴォルテールの創設メンバー。 1994年に活動を停止していたが、2020年に26年ぶりとなるアルバムをリリースしたばかりだった。 65才で、死因は公表されていない。
11月6日 テレンス・アストロ・ウィルソン
イギリスのレゲエ・バンド UB40 で、1979年から2013年の間、ボーカル、パーカッション、トランペットを担当していた。 死因は「短い期間の病」とだけ公開されている。 享年64才。
11月11日 ジョン・グッドソール
ブランドXのギタリストで、アトミック・ルースターやビル・ブラッフォードとの共演でも知られている。 パトリック・モラーツとのツアーを行ったこともあった。 68才で、死因は未公表。
11月18日 ミック・ロック
ロック・フォトグラファー。 クイーン、デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、ルー・リードなどの広く知られた多くの作品を残した。 72才だった。
12月2日 リチャード・コール
レッド・ツェッペリンのツアー・マネージャーを長年務めていた。 バンドのメンバーとは不仲で、解散直前の1980年、追われるように解任されていた。 それでもロバート・プラントらは、追悼の意を表明している。 75才。
12月10日 マイク・ネスミス
モンキーズのオリジナル・メンバーで、ボーカルとギターを担当していた。 直前の11月までツアーに出ていたが、カリフォルニアの自宅で心不全により亡くなった。 78才だった。
何十年も見続けてきた風景が、この数年、次々と書き換わってしまっている。
2022年は、こんな記事のネタが少ないことを願わずにはいられない。.
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10月15日、ビートルズの最後のアルバム「レット・イット・ビー」のスペシャル・エディションのボックス・セットがリリースされた。
オリジナルのリリースは1970年なので、ちょうど50年目ということにはならず、「50周年記念盤」にはならなかったが、いずれにしても半世紀ぶりに曰くつきの音源が公開されたことになる。 ビートルズのアルバムで巨大ボックス・セットとしてリリースされるのは4作目になり、2017年の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、2018年の「ホワイト・アルバム」、2019年の「アビー・ロード」に続くものである。 いずれも非常に大きなセットだったが、今回の「レット・イット・ビー」もディスク6枚と、100ページを超えるハードカバーのブックレットで構成される大がかりなものとなっている。
日本盤の裏面では、内容の構成が分かる。
なお内容物は、動画でも紹介されている。
今回のセットには、ポスターや絵葉書などは着いておらず、ブックレットとディスクを収めた2つのハードカバーで構成されている。
しかし、ブックレットの写真は感涙もの。
また、日本盤には、ポールのコメントや、各曲の詳細を解説したライナーが付属している。
肝心のディスクだが、オリジナルのリミックスに加え、デモやリハーサルの音源などから構成されている。
そして驚くべきことに、ボーナス・トラックも含めてボックス・セットに収録されている57曲が、全曲フル・コーラスで公開された。
57曲が試聴できるYouTubeのリンクは、ここから。 さて「レット・イット・ビー」といえば、ポール・マッカートニーがフィル・スペクターによるオーヴァーダビングを毛嫌いしていたことを思い出さずにはいられない。 ポール・マッカートニー自身、ライナーのまえがきで、この点に触れている。 ぼくらがつくったアルバムは、最後の仕上げのために、レコード・プロデューサーのフィル・スペクターに手渡された。
既に半世紀の時間が流れたためか、ポールは言葉を選んで穏やかな言い回しをしているが、ケヴィン・ハウレットによる回想の中では、当時のポールの態度に関して、非常に強い言葉が並んでいる。
1970年4月1日にオーケストラのオーヴァーダブがおこなわれた時点で、ポールはまったくそうした事態を把握していなかった。
その「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」だが、ボックスにはオリジナル・アルバムのものと、デモ版を聴くことができる。
この両方を聴けば、ビートルズのメンバーの手によらないボテボテのアレンジが、フィル・スペクターによって加えられたことがよくわかる。
もっとも、既に2003年にリリースされたアルバム「レット・イット・ビー...ネイキッド」でも、フィル・スペクターによるアレンジを徹底的に排除してリミックスされており、制作の時点でポールが望んでいたであろう音を聴くことができる。
今回のボックス・セットは誰にでもお勧めできるものではないが、「ネイキッド」と併せて歴史的価値の高い資料となった。
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