2020年2月7日、新宿ロフトにて "My Voice, My Liberty" と題するライブが催された。
出演は、オーサカ=モノレールとソウル・フラワー・ユニオンのダブル・ヘッダー。 いずれも常日頃から「物申す」ミュージシャンとして知られている。
またバンド転換の時間でDJを務めたのは野間易通さん。 彼もまた反レイシズム運動のC.R.A.C.で知られている人物である。 さて、オーサカ=モノレールは、キレッキレのファンク。
中盤では The Impressions の "Choice of Colors" をカバー。
この曲は「生まれ変わるとしたらどんな色の肌に生まれたいか」と問う歌詞で、中田さんは「選択権なんか無いねん。どんな肌の色、どこの国、どんな親、どんな兄弟に生まれるか、選択権は無いねん。」と、この曲をカバーする意義をMCでぶちかました。
そしてソウル・フラワー・ユニオンは、リクル・マイさんと共に、オリジナリティ溢れるロックを炸裂。
中川さんのTシャツには "This Machine Kills Fascists" の文字。 リクル・マイさんは "Anger Is An Energy" のプラカードを掲げていた。
当然と言えば当然なのだが、対ヘイト・スピーチのカウンターや様々なデモなどでお見かけする多くの面々が観客として詰めかけていた。
さながら反ファシズムの集会である。 このまま近くの柏木公園を出発地にしてデモのひとつもできそうな勢いだ。 デモなら、たぶん3梯団くらいは可能な人数であろう。 また、日本共産党の議員の方々もたくさん来ておられた。 共産党の皆さんも普通にお洒落でロックな出立ちだったのだが、ハイライトは何と言ってもこちら。
日本共産党の小池晃・中央委員会書記局長が鋲打ちの黒レザー!
さすがにこれは驚くわ。
ご本人も堪能されたようで、何よりである。
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しばらく前に1970年のロックの状況について整理したが、今回は一気に10年すっ飛ばして1980年のことを思い出しながら書いてみたい。
1980年はポール・マッカートニーの初来日で幕を開けるはずだったのに、いきなり成田で逮捕され強制送還されるという事態になってしまった。 さらに秋にはジョン・ボーナムが過剰な飲酒で死亡、年末はジョン・レノンが射殺されるという、ロック・ファンにとって悪夢のような年であった。 脱退劇も相次ぎ、キッスからはピーター・クリスが辞め、ローリング・ストーンズではビル・ワイマンが脱退の意志表明をしている。 その一方でポリスやブロンディなどがヒット曲を飛ばしており、80年代ロックの胎動を予感させるものとなっていた。 また日本ではこの年、山口百恵が引退し、替わって松田聖子、柏原よしえ、田原俊彦、近藤真彦らのアイドルが次々とデビューしていった。 1980年という区切りはあくまでも便宜的なものに過ぎないが、時代の風景は確実に移り変わっていたのである。(以上、敬称略)
1/7 レッド・ツェッペリン「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」プラチナ
1/11 ボブ・ディラン、第二期ゴスペル・ツアー開始 1/18 キャプリコーン・レーベル破産 1/16 ポール・マッカートニー、大麻所持の容疑で成田空港内で逮捕 1/25 ポール・マッカートニー、日本から強制退去 1/26 エジプトとイスラエルが国交樹立 2/7 ピンク・フロイド、全米でウォール・ツアー開始 2/9 トム・ペティ&ハートブレイカーズ「破壊」全米二位 2/18 ビル・ワイマン、ローリング・ストーンズから脱退の意志表明 2/19 ボン・スコット死去 2/23 クイーン「愛という名の欲望」全米一位四週 2/29 韓国で金大中氏が公民権を回復 3/22 ピンク・フロイド「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」全米一位 3/23 U2、アイランドと契約 3/29 ブライアン・ジョンソン、AC/DCとして初ライブ 4/1 松田聖子「裸足の季節」でデビュー 4/5 ジェネシス「デューク」英一位 4/19 ブロンディ「コール・ミー」全米一位 4/23 アメリカ軍がイラン人質救出作戦に失敗 4/29 ブラック・サバス、ロニー・ジェイムス・ディオとのツアー開始 5/18 韓国で光州虐殺 5/18 ピーター・クリス、キッスから脱退 5/24 日本のモスクワオリンピック不参加が決定 5/31 「マッカートニーII」英一位 6/13 ポール・マッカートニー「カミング・アップ」全米一位 6/14 ビリー・ジョエル「グラス・ハウス」全米一位、ピーター・ガブリエル「III」英一位 6/17 レッド・ツェッペリン、最後となるツアー開始 6/21 田原俊彦「哀愁でいと」でデビュー 6/28 ロキシー・ミュージック「フレッシュ・アンド・ブラッド」英一位 7/5 ローリング・ストーンズ「エモーショナル・レスキュー」英一位二週 7/7 レッド・ツェッペリン、西ベルリンで最後のライブ 7/12 オリビア・ニュートン・ジョン&ELO「ザナドゥ」英一位二週 7/19 モスクワオリンピック開幕、日本やアメリカなど67ヶ国のIOC加盟国がボイコット 7/19 クイーン「ザ・ゲーム」英一位二週、ビリー・ジョエル「ロックンロールが最高さ」全米一位二週 8/1 デフ・レパード、初の米国公演 8/2 「ディーペスト・パープル」全米一位 8/9 AC/DC「バック・イン・ブラック」英一位 8/15 ジョン・レノン「ダブル・ファンタジー」のレコーディング開始 8/19 新宿西口バス放火事件 9/6 ジャム「スタート!」英一位 9/13 ジャクソン・ブラウン「ホールド・アウト」全米一位 9/17 ポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」結成 9/20 ケイト・ブッシュ「魔物語」英一位 9/22 イラン・イラク戦争勃発 9/25 ジョン・ボーナム死去 9/27 デヴィッド・ボウイ「スケアリー・モンスターズ」英一位二週、ポリス「高校教師」英一位四週 10/4 クイーン「地獄へ道連れ」全米一位 10/5 山口百恵の引退コンサート 10/8 ボブ・マーレー、ステージで転倒、これが最後のステージに 10/11 ポリス「ゼニヤッタ・モンダッタ」英一位四週 10/17 ジョン・レノン「スターティング・オーヴァー」リリース、ブルース・スプリングスティーン「ザ・リバー」リリース 10/21 巨人の長嶋茂雄監督、退任 11/4 巨人の王貞治選手、現役引退 11/4 米大統領選でロナルド・レーガンが現職のジミー・カーターを破り当選 11/16 ブロンディ「夢見るNo.1」英一位二週 11/17 ジョン&ヨーコ「ダブル・ファンタジー」リリース 11/21 スティーリー・ダン「ガウチョ」リリース 11/22 アバ「スーパー・トゥルーパー」英一位九週 12/2 ジョン&ヨーコ、ダコタ・ビルで最後のフォト・セッション 12/4 レッド・ツェッペリン解散発表 12/6 スティーヴィー・ワンダー「ホッター・ザン・ジュライ」全米三位 12/8 ジョン・レノン銃殺事件 12/12 近藤真彦「スニーカーぶる〜す」でデビュー 12/20 ジョン・レノン「スターティング・オーヴァー」英一位 12/27 ジョン&ヨーコ「ダブル・ファンタジー」全米一位七週
音楽以外に目を向けると、世界中で戦後の冷戦体制が断末魔の叫びをあげ始めた年であった。
例えば全斗煥・軍事政権による光州虐殺、西側諸国によるモスクワ五輪ボイコット、ポーランド自主労組「連帯」結成などが起こっている。 更に10年の時間をかけて、韓国の本格的な民主化やソ連崩壊を、私たちは目撃することになった。 一方、日本はバブル景気で国を挙げて浮かれた結果、10年後にはバブル崩壊後で回復不可能な痛手を負う羽目になるのである。
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いつの間にか21世紀も20年あまりが経過し、2020年になろうとしている。
ロック史上でエポックメイキングとなった1970年からちょうど半世紀である。 この年、不仲が伝えられていたビートルズからとうとうポール・マッカートニーが脱退し、遂にビートルズは解散してしまった。 そして年末近くになるとジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンが27才という若さで相次いで亡くなっている。 1960年代の終焉ともいうべき象徴的な出来事だ。 しかし解散したビートルズからはポール、ジョン、ジョージがソロ・アルバムを発表しており、またブラック・サバス、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドらがアルバムをヒットさせている。 70年代ロック黄金期の始まりである。 世界情勢に目を向けると、アメリカによる北ベトナム爆撃再開やカンボジア介入で、インドシナ戦争が出口の見えない泥沼と化していた。 東欧では「プラハの春」が踏みにじられ事実上の終焉を迎えた一方、南米のチリで史上初の選挙によるアジェンデ社会主義政権が誕生している。 (なおアジェンデ社会主義政権は、CIAと結託した軍部ファシストの軍事攻撃を受け、1973年に崩壊してしまった。) 日本では、よど号ハイジャックや三島由紀夫割腹など衝撃的な事件があったものの、前年の東大・安田講堂陥落から学生運動が急速に収束し、大阪万博で浮かれる能天気な世相が蔓延し始めた。 その一方で沖縄では嘉手納がアメリカの軍事戦略拠点として固定化され、また米兵による女性轢殺が発火点となって、抑圧された沖縄の怒りがコザ暴動として炸裂した。 沖縄を日本とアメリカが踏みつける構図は、50年を経た現在もまったく変わっていない。
1/4 ビアフラ戦争が終結
1/28 バンド・オブ・ジプシーズ解散 2/2 エリック・クラプトンがデラニー&ボニーの全米ツアーに参加 2/7 ショッキング・ブルー「ヴィーナス」全米一位 2/14 スライ&ファミリー・ストーン「サンキュー/エブリボディ・イズ・ア・スター」全米一位二週 2/28 S&G「明日に架ける橋」全米一位六週 3/1 アメリカ軍、嘉手納基地を新たな輸送戦略基地に決定 3/14 大阪万博開幕 3/18 カンボジアのクーデターでロン・ノル将軍が実権掌握 3/31 よど号ハイジャック事件 4/1 マサチューセッツ州がベトナム戦争離脱を表明 4/1 映画「ウッドストック」公開 4/4 ジャニス・ジョプリンがニュー・ビッグ・ブラザース&ザ・ホールディング・カンパニーでライブ 4/10 ポール・マッカートニーがビートルズ脱退、ビートルズ解散 4/11 ビートルズ「レット・イット・ビー」全米一位 4/22 ベトナムのアメリカ軍15万人削減発表 4/30 アメリカ軍のカンボジア侵攻に対して全米で抗議デモ 5/1 アメリカ軍が北爆再開 5/4 ケント州立大学反戦デモで州兵が発砲し死者4人 5/9 ゲス・フー「アメリカン・ウーマン」全米一位三週 5/16 CSN&Y 「デジャ・ヴ」全米一位 5/23 「マッカートニー」全米一位三週 5/24 フリートウッド・マックからピーター・グリーン脱退 6/7 ニューヨークでロック・オペラ「トミー」開幕 6/14 デレク&ザ・ドミノスがロンドンで初のライブ 6/26 チェコスロバキア共産党、アレクサンドル・ドプチェク前第一書記など改革派幹部を除名し、プラハの春事実上終焉 7/11 スリー・ドッグ・ナイト「ママ・トールド・ミー」全米一位二週 7/18 ピンク・フロイドがハイド・パークで「原子心母」演奏 7/24 カーペンターズ「遥かなる影」全米一位四週 7/26 ジミ・ヘンドリックス、故郷シアトルでの最後のライブ 8/6 広島原爆投下の日にジャニス・ジョプリンやポール・サイモンらがニューヨークで反戦ロック・フェス 8/8 「ブラッド、スウェット&ティアーズ3」全米一位二週 8/23 ヴェルヴェット・アンダー・グラウンドからルー・リード脱退 9/6 ジミ・ヘンドリックス、西ドイツで生前最後のライブ 9/13 大阪万博閉幕、延べ入場者数約6421万人 9/18 ジミ・ヘンドリックス死亡 10/4 ジャニス・ジョプリン死亡 10/8 アレクサンドル・ソルジェニーツィン、ノーベル文学賞受賞 10/10 ブラック・サバス「パラノイド」全英一位二週 10/24 チリ大統領選で人民連合のサルバドール・アジェンデが当選し社会主義政権誕生 10/24 ピンク・フロイド「原子心母」全英一位 10/26 モハメッド・アリが再度世界チャンピオンに 10/31 レッド・ツェッペリン「III」全米一位四週 11/3 サルバドール・アジェンデがチリ大統領に就任 11/12 ジム・モリスン最後となるドアーズのライブ 11/21 ジミ・ヘンドリックス「ヴードゥー・チャイル」全英一位 11/25 三島由紀夫、市ヶ谷の自衛隊駐屯地にて割腹自決 12/11 ジョン・レノン「ジョンの魂」リリース 12/20 コザ暴動 12/26 ジョージ・ハリスン「マイ・スウィート・ロード」全米一位
あの1970年から50年後の2020年、私たち日本人はオリンピックだのカジノだのと浮かれていられる状況にあるのだろうか。
50年前の音楽を聴きながら、この閉塞した社会にどうしたら風穴を開けることができるのか、考えてみたいものだ。
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ロック・ミュージシャンの高齢化に伴い、亡くなる方が年々増えている。 たいへん悲しいことだが、こればかりは自然の摂理であり、どうすることもできない。 せめて故人となってしまった方々の記録を今年も残しておきたいと思う。(以下、敬称略)
1月28日 ポール・ウィアリー
ヘヴィ・メタルの元祖、ブルー・チアーのドラマー。 バンドが活躍していた60年代から2009年の活動終了まで、脱退と再加入を繰り返していた。 ドイツの自宅で心不全により死去。72才。
1月29日 ジェームス・イングラム
ボーカルとしてのみならず、プロデューサーとしても知られていた。 U.S.A. For Africa の "We Are the World" でも、その姿を見ることができる。 脳腫瘍。66才。
2月12日 ゲラルド・コェスター
ユーロ・ロック・マニアの間で知られているオランダのプログレ・バンド「アース・アンド・ファイアー」のオリジナル・メンバー。 なおファンクで有名な「アース・ウィンド・アンド・ファイアー」とは何の関係もない。 享年71才。
2月21日 ピーター・トーク
モンキーズでベースを担当。 1965年にオーディションで選ばれたメンバーの一人だった。 リード・ボーカルのデイビー・ジョーンズも2012年に鬼籍に入っている。 死因は癌とのこと。77才。
2月25日 マーク・ホリス
80年代に一世を風靡したニューロマンティック勢にカテゴライズされるトーク・トークのボーカル。 「急病」であったこと以外に死因は報じられていない。64才。
2月26日 アンディ・アンダーソン
1983年から1984年の間にザ・キュアーでドラマーを務めていたが、アルコールのトラブルでバンドを解雇されていた。 癌で死去。68才。
2月28日 ステファン・エリス
80年代に "Eye Of The Tiger" をヒットさせたサバイバーのベーシスト。 1999年に脱退している。69才。
3月4日 キース・フリント
プロディジーのフロントマンだった。 地元エセックスの自宅で自殺しているところを発見された。 49才。
3月17日 内田裕也
1959年にデビューし、フラワー・トラベリン・バンドなどで活躍。 1973年からニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバルを開催し、若手からリスペクトされていた。 79才。
3月22日 スコット・ウォーカー
60年代にウォーカー・ブラザースとして多くのヒット曲を飛ばした。 後のデヴィッド・ボウイやレディオヘッドにも大きな影響を与えている。 76才。
3月26日 萩原健一
テンプターズやPYGなど、GSからポストGS時代のシーンを牽引。 「ショーケン」で知られる俳優でもあった。 消化管間質腫瘍にて死去。68才。
4月13日 ポール・レイモンド
UFOでギターとキーボードを担当し、バンドを支え続けてきた。 1978年のライブ・アルバム "Strangers In The Night" ではマイケル・シェンカーと共に脂の乗り切った演奏を聴かせてくれる。 心不全で死去。73才。
4月22日 デイヴ・サミュエルズ
80年代に活躍したフュージョン・グループのスパイロ・ジャイラのオリジナル・メンバーで、ヴィブラを担当していた。 死因は公表されていないが、長期にわたり療養中だった。 70才。
4月25日 遠藤ミチロウ
ザ・スターリンのボーカリストで、ステージから豚の臓物を投げるなどライブでの奇行が有名だった。 膵臓癌による長い闘病生活を経て亡くなった。 68才。
5月31日 ロッキー・エリクソン
1965年から1969年の間に活動したアメリカのサイケ・バンド、13thフロア・エレベーターズのフロントマン。 パンクやグランジ・シーンにも影響を与えている。 ドラッグで心を壊して長期入院し、健康状態の悪化に生涯苦しめられていた。 71才。
6月6日 ドクター・ジョン
ニューオリンズを拠点にしたスワンプ・ミュージックの教組。 1972年の "Dr. John's Gumbo" で高い評価を受けたほか、ローリング・ストーンズなど多くのミュージシャンとの共演を果たしている。 心臓発作により77才で他界。
6月29日 ゲイリー・ダンカン
西海岸を代表するサイケデリック・バンド、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのギタリスト。 80年代以降も自らのバンドを率いて、サンフランシスコのミュージック・シーンを牽引していた。 合併症で死去。72才。
8月1日 ナイジェル・ベンジャミン
1974年にモット・ザ・フープルから脱退したイアン・ハンターの後を継いで、ボーカルとして加入した。 バンド名をモットに変更し再生を図るものの、1977年に脱退している。 心不全。64才。
8月19日 ラリー・テイラー
アメリカのブルース・ロック・バンド、キャンド・ヒートで1967年からベースを担当していた。 ウッドストックやモンタレーなどの巨大なフェスで演奏している。 10年以上にわたる癌との闘病の末に死去。77才。
9月13日 エディ・マネー
1978年にデビューし、80年代にかけて "Take Me Home Tonight" などのヒット曲を飛ばした。 2019年4月、テレビ番組でステージ4の食道癌であることを明かしていた。 70才。
9月15日 リック・オケイセック
カーズのボーカルで、楽曲のほとんどの作詞・作曲を行っていた。 80年代に盛り上がったMTVに合う独特のビデオを展開し、数々のヒット曲を放っている。 ニューヨークのアパートで亡くなっているところを発見された。 循環器障害。75才。
9月20日 ヨンリコ・スコット
デレク・トラックス・バンドにドラマーとして1995年に参加。 モータウン系のセッション・ドラマーとしても活躍し、ソロ・アルバムも3枚残している。 死因は明らかにされていない。63才。
10月6日 ラリー・ヤンストロム
レーナード・スキナードのオリジナル・メンバーで、38スペシャルでもベースを弾いていた。 2014年に手術を要する大怪我を負って以来、引退していた。 70才。
10月6日 ジンジャー・ベイカー
言わずと知れたクリームのドラマー。 クリーム解散後は、ワールド・ミュージックやジャズなど多方面にわたって活躍し、死の直前まで音楽活動を積極的に続けていた。 心不全。80才。
10月12日 モーリー・ダンカン
アヴェレージ・ホワイト・バンドの創設メンバーで、1982年までテナーを吹いていた。 またセッション・ミュージシャンとしても、レイ・チャールズやマーヴィン・ゲイなどのアルバム、ライブに数多く参加している。 癌で死去。74才。
10月26日 ポール・バレア
リトル・フィートのギタリストとしてローウェル・ジョージと共にバンドを支え、ファンキーな曲作りに貢献してきた。 ローウェルの死後もリトル・フィートとしてバンドを続けていた。 肝臓癌。71才
11月2日 バート・ウォルシュ
1999年からデヴィッド・リー・ロスのバンドでリード・ギターを弾いており、ポイズンやモトリー・クルーのメンバーとも親交があった。 癌を患っていたが、消化管出血と脱水が直接の死因となった。 56才。
12月9日 マリー・フレデリクソン
スウェーデン出身のデュオ、ロクセットの女性ボーカル。 "Listen To Your Heart" をはじめ、80年代に全米チャート一位や二位となるヒット曲をいくつも放った。 2002年に脳腫瘍を患い、順調に回復していると伝えられていたが、癌で死去。 61才。 ベテラン勢では年齢が既に70代半ばを超えているケースも多い。 長年ファンだったミュージシャンの訃報に接するのは非常にきつい。 もはや心の準備をしておくしかないのだろうか。 合掌。
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クラッシュやスティール・パルスらがコミットし、1970年代から80年代にかけて展開された反人種差別の運動 “Rock Against Racism” について調べていく中で、発端となった1976年のエリック・クラプトンによる差別発言に辿り着いた。 エリック・クラプトンが人種差別発言を行ったということを薄々知ってはいたが、この機会に発言の原文を読んでみたところ、吐き気を催す酷いものであった。 私自身は40年以上にわたって彼のファンであり続け、当ブログでも「エリック・クラプトン 70年代の武道館セットリスト」を書き起こすなどしている。 しかしこの差別発言に関してあまりにも無知かつ無自覚であったと猛省するしかなかったので、その内容を記録しておくことにした。
エリック・クラプトンがライブ会場のMCで露骨な人種差別発言を行ったのは、1976年のイギリス・バーミンガムでのことだった。
事の一部始終は書籍「ロック・クロニカル 現代史のなかのロックンロール」(広田寛治著 河出書房新社)に詳しいので引用させていただく。 76年9月、バーミンガムで開かれたエリック・クラプトンのコンサートで、時間が凍りついてしまったかのような奇妙な静寂の時が流れたという。
この時の実際の発言そのものは様々な報道やサイトで断片的に掲載されており、またFacebookグループのComunidade Cultura e Arte がそれらを取りまとめている。
この中に出てくるwogsやcoonなどの差別語は、現在の欧米の報道ではwxxx、cxxxなどとマスクされるものであるが、ここでは敢えてそのまま引用しておく。 Do we have any foreigners in the audience tonight?
あまりにも酷い内容なのでとても全文翻訳する気にはなれないが、ざっくり要約するとこんな塩梅だ。
「この会場に外国人のクソ野郎はいるか?いるなら出ていけ。会場だけじゃない、国からもだ。よく聞け。エノック・パウエルに投票しろ。黒人やアラブ人やジャマイカ人は出ていけ。イギリスは白人のための白人の国だ。」 言うまでもなく、エリック・クラプトンはブルースでキャリアを開拓し、この発言の数年前にレゲエで復活を遂げた人物である。 その彼が黒人やジャマイカ人を差別し罵倒するとは。 さらに驚くべきことに、エリック・クラプトンはこの年、ボブ・マーリーのライブを観に行き、またフレディ・キングとセッションを行った記録が残っているのである。 1977年に発刊された写真集「エリック・クラプトン」(新興楽譜出版社)の巻末の年表には、次のような記載がある。 1976/5/25
当然ながらこの後、エリック・クラプトンは人種差別発言を生涯にわたって非難されることになった。
2017年に伝記映画 “Life in 12 bars” (邦題「エリック・クラプトン~12小節の人生~」)が制作されたが、この映画に関するメディアとのQ&Aセッションでも、1976年の人種差別発言について質問されている。 ローリングストーン誌に掲載されたエリック・クラプトンの発言は次のようなものだった。 根拠もなく半人種差別主義者のようだった。
一応反省の弁は見せているが、発言の前半は文字通り差別主義者の典型的な言い訳 “I have a black friend” である。
本当に反省しているのか、疑問に思わざるを得ない。 また差別発言をアルコールのせいにしているが、酔っているときほど本音が出やすいものではないのだろうか。
残念ながら “Rock Against Racism” を経ても、ロック・ミュージシャンによる人種差別発言が止むことはなかった。
近年ではモリッシーが差別主義者になってしまったことで知られている。 例えば2016年8月、モスリム系として初のロンドン市長となったサディク・カーン氏についてモリッシーは「ハラルを食ってる野郎が早口で話すからさっぱりわからねえ」と発言している。 また本邦でも最近、小沢健二が次のようなツイートを残している。
「圧死笑」。何なんだ。 いい加減にしてもらいたい。 再び「ロック・クロニカル 現代史のなかのロックンロール」から引用しておく。 歴史的にみれば、自国の植民地支配を正当化し、偏狭な愛国主義をテコに失業問題を人種差別の理由にする考え方こそが、世界中で差別を生み出してきた原因であったのだ。
なお “Rock Against Racism” の詳細は、HEAPSの記事「ステージとフロアの上でぶち壊した「音楽と人種の壁」パンクとレゲエ、白と黒が混ざり合った音楽ムーブメント、あの5年間」を一読いただければと思う。
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1971年に不朽の名盤 "Led Zeppelin IV" をリリースして大きな評価を獲得したレッド・ツェッペリンは、翌1972年1月から "Houses of the Holy" のレコーディングを開始する。 2月に入るとオーストラリアやニュージーランドのツアーでいったんレコーディングを中断するが、5月には作業を完了させ、続けて大規模な北米ツアーに再び乗り出した。 そして10月、レッド・ツェッペリンは2度目にして最後となる再来日を果たす。 前年のライブは東京、大阪、広島で行われたが、この年は東京、大阪と名古屋、京都の四箇所になった。 これら日本での全音源を含め、1972年のライブをブートで追いかけてみたい。 なお、1969年から1971年の音源は、下記のリストを参照いただければと思う。 また今回も詳細な情報は、ledzeppelin.com を参照させていただいた。
2月16日、レッド・ツェッペリンはオーストラリア西部のパースに上陸した。
その後20日、第二の都市メルボルンでライブを決行している。 セットリストは前年とほぼ同様に "Immigrant Song" で始まり、アルバム "I" から "IV" までまんべんなく取り上げられたものとなっている。 2月25日はニュージーランドのオークランド。 ここでは "III" からのアコースティックセットが組まれている。 2月27日、オーストラリアへ戻り、最大の都市シドニーでのライブとなる。 ブート音源は残念ながら出だしの "Immigrant Song" と "Heartbreaker" の二曲が欠けてしまっている。 この日は久しぶりにジョン・ポール・ジョーンズのオルガンを中心にした "Thank You" で〆られた。 ブリスベーンでの2月29日のライブで、オーストラリアとニュージーランドでのツアーは終了した。
5月は27日のアムステルダムと28日のブリュッセルの2箇所だけのヨーロッパ公演が行われた。
いずれもオーストラリアでのセットリストに近いが、"Rock and Roll" が新たに加わっているところに注目したい。 そして6月6日、デトロイトを皮切りにいよいよ北米ツアーの幕が開けた。 この日初めて最後の曲が "Rock and Roll" となった。 6月7日のモントリオールでは、 "Rock and Roll" に続けて "Thank You" が演奏されている。 6月9日のシャルロットと6月11日のボルティモアの〆は "Rock and Roll" から "Communication Breakdown" への流れ。 6月15日、ニューヨーク州ユニオンデールでのセットリストからは "Rock and Roll" がなぜか消えてしまった。 シアトルでは6月18日と19日で二日間連続のライブが行われている。 18日は元々バンクーバーで予定されていたものだったが、バンクーバー市当局の許可が下りず急遽シアトルに変更となった。 18日の演奏は短めになっているが、打って変わって19日は3時間以上にも及ぶ長丁場のライブになり、"Rock and Roll" から "Thank You" などを挟んで "Dancing Day" で終わるという凄まじいセットリストだった。 22日のサン・ベルナルディノからカリフォルニア入りしてからは、連日 "Rock and Roll" で〆る壮絶なライブを展開している。 25日のロサンゼルスでは、ライブは3時間に及んだ。 なお27日のロング・ビーチでの音源の一部は、正式なライブ盤 "How The West Was Won" で聴くことができる。 そして北米ツアーは28日のアリゾナ州タスコンが最終日となった。
北米ツアーからおよそ3か月後の10月2日、遂にレッド・ツェッペリン2度目の来日が武道館で開幕した。
驚くことに、北米ツアーとは変わって先頭の曲が "Rock and Roll" になり、さらに "Houses of the Holy" からふんだんに演奏されることになっている。 これは映画「永遠の歌 "The Song Remains The Same"」で観ることができるマディソン・スクエア・ガーデンでのセットリストの原型と言っていいだろう。
翌3日の武道館二日目は "The Crunge" と "The Ocean" が演奏された。 初日と併せると "Houses of the Holy" の曲がほぼすべて披露されたことになる。 4日は大阪フェスティバル・ホール。 セットリストは武道館初日とほぼ同じ。 5日にいったん名古屋へ移動。 名古屋市公会堂では東京や大阪では演奏されなかった "Thank You" が〆となった。 3日間の休みを挟んで、大阪二回目の10月9日。 セットリスト自体は4日のものと大きな変わりはないが、"Whole Lotta Love" のメドレーが30分に達する長さとなった。 10月10日、来日最終日の京都。 そしてこれが最後の日本でのライブとなった。 キャパの小さい京都会館なので、行かれた方は間近で観ることができたのではないだろうか。
二度目の来日を果たしたレッド・ツェッペリンは、11月末にスイスのモントルーにて二回演奏し、続けて全英ツアーを開始する。
12月3日のグラスゴーや8日のマンチェスターでは、日本でのセットリストとほぼ同様の構成で演奏された。 20日、ブライトンでは "Heartbreaker" で〆るという変則的な形になっている。 12月22日と23日、ロンドンのアレクサンドラ・パレスでのライブ。 この日を最後に、1972年のレッド・ツェッペリンのツアーは終了する。
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"Led Zeppelin III" をリリースした翌年の1971年、遂にレッド・ツェッペリンが待望の初来日を果たした。 ライブ会場は東京と大阪だけでなく、バンド側の強い希望で広島が加えられている。 広島に着いたレッド・ツェッペリン一行は原爆ドームと原爆資料館を訪れ、また広島でのギャラをすべて原爆の被害者に寄贈した。 こうした彼らの思いであろうか、広島はもとより、東京や大阪でも長時間にわたって緊張感の高い演奏が繰り広げられた。 1971年は歴史的名盤 "Led Zeppelin IV" がリリースされており、レッド・ツェッペリンにとっても頂点のひとつを極めた年でもある。 ここでは東京、広島、大阪での全5公演の他、この年のライブ音源をブートで辿ってみることとしたい。 また1969年の音源は「1969年のレッド・ツェッペリン」、そして1970年については「ブートで辿る1970年のレッド・ツェッペリン」を併せて参照いただければ有難い。 なおセットリストなどの詳細な情報は、ledzeppelin.com を参照した。
1970年9月まで怒涛の全米ツアーを繰り広げたレッド・ツェッペリンは、1971年3月5日から北アイルランドのベルファストを皮切りに、ヨーロッパ・ツアーを開始した。
半年ぶりのライブは、前年にリリースされた "III" に収録されている "Immigrant Song" で開幕。 さらにこの時点では未公開だったアルバム "Led Zeppelin IV" から "Black Dog" "Stairway to Heaven" "Rock and Roll" が初めてライブ演奏されている。 翌日3月6日のダブリンでは、"Rock and Roll" がアンコール曲となった。 3月9日から4月1日まで全英ツアーをこなし、一か月後の5月3日と4日にデンマークでライブを行っている。 5月3日もアンコールの "Rock and Roll" で〆られた。 5月10日にリバプールで、また7月5日にはミラノで散発的にライブを行った後、8月7日のスイスに上陸したレッド・ツェッペリンは、続けて大規模な北米ツアーを開始した。 ロサンゼルスでのライブは8月21日と22日と二回続けて行われた。 いずれも最終曲はジョン・ポール・ジョーンズのオルガン・ソロに続く "Thank You" となっている。 23日のテキサス州フォート・ワース、31日のフロリダ州オーランドでのセットリストもほぼ同様。 9月4日、カナダのトロントでは、ライブ前に "Led Zeppelin III" に対するゴールドを受賞した。 9月9日のヴァージニア州ハンプトンでの音源は、残念ながら "Moby Dick" の途中で切れてしまっている。 アンコール曲は、9月11日のニューヨーク州ロチェスターまで "Thank You" だったが、13日のカリフォルニア州バークレーでは再び "Rock and Roll" となった。 14日にもバークレーでライブが行われているが、この日は "Whole Lotta Love" で終了している。
そして9月23日、ついにレッド・ツェッペリンが日本に上陸した。
初日の武道館では、バンドが登場する前に司会者によるMCがあり、「レッド・ツェッペリンの演奏会、今日は第一部も二部もありません」などと話していて、現代とは違う時代の空気を感じさせる。 しかしバンドが登場するやいなや "Immigrant Song" でロバートが吠え、"Heartbreaker" でジミーが炸裂。 "Since I've Been Loving You" も、その後公開されたマディソン・スクェア・ガーデンでの演奏を凌ぐ凄まじさである。 さらに30分にわたる "Whole Lotta Love" では、"How Many More Times" "You Shook Me" なども交えた変幻自在のアドリブ大会。 こんな演奏を突き付けられた当時の観客は、腰を抜かしたであろう。 なおこの日のアンコールは "Communication Breakdown" だった。 武道館の二日目は、初日に無かったジョン・ポール・ジョーンズによるオルガンのソロと "Thank You" で終了し、その後アンコールの "Communication Breakdown" へ突入。 9月27日、東京に続く広島でのライブ。 武道館でのライブも凌ぐ緊張感で演奏されている。 アンコールの "Communication Breakdown" の途中で演奏をいったん停め、ロバートが観客に「ステージに押し寄せるな。落ち着け。そこで座れ」となだめたうえで演奏を再開した様子が判る。 9月28日、大阪の初日ではビートルズの "Please Please Me" と "From Me to You" のサワリを歌って "Celebration Day" に突入するという遊びを見せている。 さらにアコースティック・セットの中では "We Shall Overcome" や "Down by the Riverside" を交え、また最後の "Communication Breakdown" の前に "C'mon Everybody" をカバー。 翌29日、大阪の二日目では "Thank You" に続けて "Rock and Roll" が演奏されるという豪華なセットリストとなった。
来日後およそ一か月の休暇を取り、11月8日に "Led Zeppelin IV" をリリースしたレッド・ツェッペリンは、11月11日のニューキャッスルから全英ツアーを開始する。
11月16日は初めて "Gallows Pole" でライブを終了してみせた。 11月24日、マンチェスターでは再び "Thank You" を最後に持ってきている。 12月21日のサリズビュリーでのライブで、1971年のツアーは終了した。 翌年1972年は、二回目にして最後となった再来日が行われる。
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レッド・ツェッペリンのデビューからおよそ50年が経過した。 デビュー直後の1969年のライブについては、「1969年のレッド・ツェッペリン」と題したSo-netのブログ記事として既に纏めているので、ここでは続編として1970年のライブをブート音源中心に追いかけてみたい。 アルバムとしては、1970年に突入する直前の1969年10月、歴史的名盤 "Led Zeppelin II" がリリースされており、さらに1970年10月には大胆にアコースティックを取り入れた "Led Zeppelin III" が出されている。 ライブでも1970年前半は "I" や "II" に収録されたヘヴィーな楽曲ばかりだったが、早くも6月ころからは "III" の曲が演奏されており、セットリストが大きく変化した一年でもあった。 なおライブの日程や会場などの情報は、ledzeppelin.com を参照させていただいた。
1970年は年明け早々の1月7日から17日まで、全英ツアーで幕開けした。
ツアー3日目の1月9日、ロンドンの Royal Albert Hall でのライブは、正規の映像である「レッド・ツェッペリン DVD」として販売されている。 この頃、オープニングで演奏されていた "We're Gonna Groove" は当時レコードではリリースされておらず、1982年の "Coda" に収録されるまで待つこととなる。 なお1月9日はジミー・ペイジの誕生日であった。 全英ツアー終了から一か月後、2月23日から3月12日はヨーロッパ・ツアーが行われた。 ツアー初日は、フィンランドの首都ヘルシンキである。 3月7日のスイスのモントルー・カジノでのライブの模様は、"Super Pop70" というラジオ番組で放送されている。 3月10日は、ドイツのハンブルグ。 この頃のセットリストの特徴の一つは、"How Many More Times" を即興で崩しまくって、様々なオールディーズをメドレーで演奏しているところにある。 この手法は、後程 "Whole Lotta Love" の演奏に引き継がれることとなった。 ヨーロッパ・ツアーの直後の3月21日から4月19日は、いよいよ北米ツアーの開始である。 北米ツアー初日となった3月21日はカナダのヴァンクーヴァー。 この日、レッド・ツェッペリンはプレス・カンファレンスに応じている。 3月27日はカリフォルニア州の The Forum でのライブ。 この日は夜8時45分から11時15分まで、実に2時間半にわたるライブを繰り広げている。 4月8日のノース・キャロライナ州ラーレーでのライブは、交通渋滞で開演が1時間近くも押してしまった。 悪いことにアンプも故障してさらに遅れる事態となり、観客も我慢の限界で爆発寸前の状態となった。 そこへ現れたレッド・ツェッペリンの怒涛の演奏で、観客のイライラは一気に吹き飛ばされてしまったのである。 4月17日のテネシー州メンフィスでのライブの数日前、レッド・ツェッペリンのメンバーは、メンフィス市の名誉市民を授与されることとなった。 4月18日、アリゾナ州フェニックスではロバート・プラントの体調が優れず、ライブを1時間半ほどに短縮せざるを得ない事態となった。 翌日のラス・ヴェガスでのライブはキャンセルとなっている。 4月19日を最後に北米ツアーを終了したレッド・ツェッペリンは、5月から "III" の録音を開始した。 アルバムの制作は8月までかかっているが、6月22日から7月19日までのヨーロッパ・ツアーと並行しての作業だった。 6月28日にイギリスで行われた Bath Festival の音源では、"III" に収録されている "Immigrant Song" や "Since I've Been Loving You" を聴くことができる。 ヨーロッパ・ツアーに続く8月10日から9月19日の期間は、この年最後の北米ツアーとなった。 北米ツアー初日はヴァージニア州のハンプトンで行われたが、このライブは長年の間、8月15日もしくは17日と考えられていた。 近年確認された記録で、8月10日のことであると判明したらしい。 実際、8月15日のライブの会場は、コネチカット州ニューヘイブンとなっている。 そして8月21日、オクラホマ州タルサのアセンブリー・センター。 ここでは "Whole Lotta Love" の中間部に様々なオールディーズを挟み込むアドリブが披露されている。 このスタイルはその後数年間続けられることとなった。 ワイオミング州ミルウォーキーでの8月31日のライブは、元々27日に予定されていたものだった。 9月2日、カリフォルニア州オークランドでは、アンコールで "Train Kept a Rollin" "Blueberry Hill" "Long Tall Sally" が演奏されている。 9月3日はカリフォルニア州サンディエゴ。 9月4日、カリフォルニア州イングルウッドでのライブは、 "Blueberry Hill" とのタイトルの「ブートの名盤」として知られている。 9月6日、ホノルルでは19時と22時半からツーセットでライブが行われた。 公式YouTubeチャネルでは、セットリスト最後の曲 "Communication Breakdown" が公開されている。 9月19日、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデン。 前日18日に亡くなったジミ・ヘンドリックスに捧げる内容が含まれている。 なおこの日も一晩でツーセットをこなすという超人的なライブだった。
こうして1970年のレッド・ツェッペリンのツアーは終了し、10月5日の "Led Zeppelin III" リリースを迎えることとなる。
3年ぶりに来日したエリック・クラプトンが、4月13日を皮切りに連日にわたって武道館でのライブを続けている。 セットリストは基本的に変わっていないが、二日目以降は初日に無かった "High Time We Went" をアンコールで演奏しているようだ。 エリックと武道館の縁は深く、初来日公演を武道館で行ったほか、1979年の演奏はライブ・アルバム "Just One Night" として残してもいる。 ここでは Setlist.fm に掲載されている情報を基に、初来日を含む70年代の武道館でのセットリストを振り返ってみたい。 1974年 この年、アルバム "461 Ocean Boulevard" で復活を遂げたエリックが、初来日を果たした。 10月31日からの3日間の武道館公演で始まり、続けて大阪で2日間行われている。 1974年10月31日 1974年11月1日 1974年11月2日 セットリストは連日大きく変わり、アンコールも初日の "Layla" から "Little Wing"、"Blues Power" と入れ替えになっている。 なお、この頃頻繁に演奏されていた "Smile" は当時のアルバムには未収録だったが、後年ライブアルバム "Live In The Seventies" や "461 Ocean Boulevard" デラックス・エディションに記録されている。 また "461 Ocean Boulevard" に続くアルバム "There's One in Every Crowd" のレコーディング直後のタイミングであったため、アルバム発売に先駆けて収録曲 "Singing the Blues" や "Little Rachel" も披露された。 なにしろ長期のドラッグ中毒療養から復活しての初来日だったため、ミュージック・ライフなどの音楽誌が激しく盛り上がっていたことを記憶しているが、私自身はまだ中学2年であったため、残念ながら初来日を見届けることはできなかった。 1975年 初来日からちょうど一年後、再び武道館にて来日公演が開始された。 1975年11月1日 1975月11月2日 この年のセットリストも、二日間で大きく変更されている。 また私自身にとっても初めてのエリック・クラプトンのライブとなり、その後40年以上にわたってほぼ皆勤賞で観続けるきっかけにもなった。 詳細な記憶は既に失っているが、"Farther On Up the Road" で盛り上がったような気もするので、おそらく11月2日に観に行ったのだろう。 当時のバンドには女性コーラスでイヴォンヌ・エリマンとマーシー・レヴィーが参加していたが、マーシーに自身の曲 "Teach Me to Be Your Woman" を歌わせている。 今回の来日でもバンドのメンバーのためにそれぞれソロの見せ場を作っているが、この頃からそうした配慮が成されているのが興味深い。 1977年 1976年の "No Reason to Cry" の発売後で、名作 "Slowhand" のリリースを控えたタイミングでの来日となった。 武道館での演奏は10月6日と7日の二日間行われているが、残念ながら6日分の記録が残っていない。 1977年10月7日 この年の公演で覚えているのは、開始が予定より一時間以上も遅れたうえ、エリックが明らかに泥酔している様子だったことだ。 ニューアルバム "Slowhand" から "Cocaine" が披露されているが、再度アルコールなどの問題を抱えることになっていたのは皮肉である。 1979年 2年を経て、4回目の来日公演、二日連続の武道館となった。 セットリストは両日とも同じものである。 1979年12月3日、4日 この年、エリックはバンド・メンバー全員をイギリス人に替えており、新たなラインナップでの初めての来日であった。 また前述したように、12月3日分の演奏は、ライブアルバム "Just One Night" として翌1980年にリリースされている。 アルバムの曲順は、実際の演奏のセットリストから大きく逸脱はしていない。 自分がその場にいたライブがアルバムとして残るという貴重な体験をしたのは、後にも先にもこの一回きりである。 エリック・クラプトンは80年代以降も頻繁に来日を続けており、武道館で収まりきらなくなった時期には東京ドームや横浜アリーナなどを会場にしている。
歌もので売れていた頃、隣の席のカップルが「クラプトンってギターもうまいのね」などと話しているのを聞いて、倒れそうになったこともあった。 ともあれ、ポール・マッカートニーやジェフ・ベックなどと共に、未だ現役感バリバリでライブを続けている貴重なミュージシャンである。 Photo by Chris Yates on Unsplash 先日作成した記事「始まったCDの寿命問題」について、思いのほか広く関心を持っていただくことができ、一週間で30万近いアクセスと5,000以上の「いいね」を頂戴した。 通常は一日あたり1,500アクセス程度なので、ちょっとしたバイラルである。 なお自分ではFacebookページで紹介しただけなのだが、アクセス元を分析してみるとTwitterからの流入がたいへん多いことが判った。 多くの方にシェアいただいたようで、たいへん有難いことである。 その記事中で「最も確実な対策はバックアップを取っておくこと」と結論付けたのだが、複数の方からバックアップの具体的な方法についてご質問をいただいた。 そこで続編として、簡単なバックアップの方法をご案内しておきたい。 まず、バックアップ用の外付けHDDを予め用意しておこう。 外付けHDDは、既に1TBの容量でも1万円を切っている。 CD 一枚当たりの平均の容量を500MBとして計算すると、1TBあれば2,000枚まで収納できることになる。 数千枚規模で所有している方でも、HDDは安価になっているので、価格について心配する必要はあるまい。 また、バックアップのツールで最も簡単なものは、Windows Media Playerだ。 Windowsに付属しているものなので、別途ソフトウェアを購入する必要もない。 最初にWindows Media Playerを立ち上げたら、CDを挿入して「取り込みの設定」タブをクリックする。 ここでメニューの中から「その他のオプション」を選択。 次に「音楽の取り込み」タブで、HDDのドライブの指定と、取り込み形式の設定を行う。 ここで取り込み形式を「WAV(無損失)」にしておけば、CDの音質を損なうことなく、バックアップを取ることができる。 MP3など圧縮形式にすると容量は小さくなるが、芯のないペラペラな音になってしまうので注意が必要だ。 これではバックアップの意味がない。 そして「OK」をクリックした後、「CDの取り込み」タブをクリックすればバックアップが開始される。 バックアップの時間はCDドライブの性能やUSBポートの転送速度などに左右されるが、ざっくり一枚あたり5分程度とみておけばよいだろう。 枚数によってはそれなりの作業時間が必要になるので、特に古いものや貴重なものから優先的にバックアップすればよいと思う。 また、HDD自体も壊れるものなので、ドライブ丸ごとコピーを作っておけばさらに安心である。 CDのバックアップは、著作権法第30条に定められているように、あくまでも「個人的に又は家庭内」で使用するためのものであり、有償無償を問わず他人に渡したり、業務で使用することは厳禁である。
ネットワーク上に置いて、他のユーザーがアクセスできるようにしてもいけない。 また著作権については共謀罪の対象となっているので、「バックアップを他人に渡す相談」をしただけで、共謀罪として摘発可能な法的要件が成立してしまう。 くれぐれもご注意いただきたい。 |