Photo by Alex Knight on Unsplash 7年前の2011年3月11日、日本を東日本大震災が襲った。地震に続く津波や原発爆発などの被害も加わって、この日を境に日本の風景と日常は一変してしまったと言えよう。 多くの死傷者を出し、また今なお避難生活を余儀なくされている東北地方の被災者の方々を思えば、東京在住の私の体験など比べようもない。それでも、ある種の心的外傷により、当日の詳細について書き起こすことが躊躇われていたのは事実である。 しかし時の経過とともに記憶が曖昧になってきたので、そろそろ自分自身の身に起こったことを書き残しておこうと思う。 なお Blockquote で囲んだ部分は、後に報道で知ったところである。 14時46分 東北地方から関東地方にかけて巨大な地震発生。当時、私は千代田区麹町にあるオフィスビルの6階にいた。揺れは大きいだけでなく長い時間続いたため、ラック上のサーバが次々と床へ落下し、また大きなコーヒーマシンも倒れて熱湯が床に溢れてしまった。窓から見えるニューオータニの最上階がゆっくりと左右に動いているのがわかる。 入居していたオフィスビルは新しくないものだったので、倒壊の不安が心を横切った。本気で生命の危機を覚えたのは生れて初めての経験である。 なおこの後家族と連絡を取り合ったはずなのだが、なぜか記憶から欠落している。 15時30分ころ 16時ころ オフィスのテレビから、東北地方の津波と火災の被害の映像が次々と流れてきて、言葉を失う。 外出先から戻ってきた同僚からは、オフィス近くの九段会館でも天井崩落で救急搬送された人たちがいるとの話を耳にした。 自宅の方向へ向かう鉄道は全て停止しており、復旧の見通しも立っていない中、オフィス近隣のホテルは全て満員で、また周辺のコンビニからは既に食料がほとんど消えていた。 仕方がないので意を決して、30km先の町田の自宅まで歩くことにした。 (なお東京都は2013年、東日本大震災を教訓にした条例で、帰宅困難者が3日間過ごせるよう、水や食料などの備蓄の努力義務を事業所に課している。) 17時30分ころ オフィス出発。 国道246号線の車道は渋滞でまったく動いておらず、歩道も大混雑。青山にある自転車専門店では10万円近い高額な商品まで全て売り切れてしまっていた。やはり歩くしかない。 途中の渋谷は大混雑で、歩道橋を渡るにも一苦労であった。 いったん夕食を摂るために池尻大橋のラーメン店に入り休憩。 19時03分 19時30分ころ 二子玉川到着。 途中の三軒茶屋あたりでは、徒歩の帰宅者にスープを振る舞う飲食店もあった。ここまでの間、国道246号線沿いの歩道の混雑はまったく減る事もなく大渋滞であった。 二子玉川ライズのフロアで30分ほど足を休ませてもらったが、ここも同じような人でいっぱいだった。 多摩川を渡る橋も歩行者で埋め尽くされていた。 20時ころ 23時ころ ただひたすら西へ向かって歩き続けながら、時々携帯をチェックして東急の運行状況を見ていたが、横浜市青葉区荏田付近へ来たところで電車が動き始めたことがわかり、駅まで向かいようやく乗車。 最後の10kmほどは歩かずに済み、何とか日付が変わる前に帰宅して家族に再会することができた。 震災当日、私自身は自宅へ帰りつくことで頭がいっぱいだったが、同時に福島第一原子力発電所ではたいへんな事態が進行していた。そして翌12日、1・3・4号機が大爆発を起こし、最悪の原子力事故となる。
7年が経過した2018年現在に至っても原子力事故は何一つ収束していないし、今なお7万3000人もの人たちが避難生活を強いられている。何が「美しい国」なのだろうか。
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