久保田直己 不撤不散
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中央大学法学部通信教育課程 卒業にあたって

2/4/2023

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Photo by Dom Fou on Unsplash
この2023年3月、中央大学法学部通信教育課程を卒業することができた。東大の工学部を卒業したのが1983年3月だから、実に40年ぶりの大学卒業である。3月25日には立派な卒業式に出席させていただくこともできた。40年前の東大では卒業式らしい卒業式はなく、実験の途中で白衣を着たまま教室に集まって、卒業証書を受け取ったらそのまま研究室へ戻って実験を再開した記憶しかない。当時の状況と比べると、なかなか感慨深いものがあった。
これで工学部と法学部を卒業したことになるので、ダブルメジャーとかダブルディグリーと呼ばれるものに当たるのかと思ったものの、これらはどうやら「同時」に複数の学位を取得することらしい。ともあれ理系と文系の二つの学位を取得したことになるのは確かである。

そもそもなぜ還暦を過ぎてから改めて大学で勉強しようと決意したのか、これにはいくつか理由がある。一つはこの年齢になっても人文系の教養が圧倒的に足りないとの自覚である。例えば日本史について言えば、鎌倉時代と室町時代の先後すら覚束ない有様であった。(なお、この問題は、日本法制史を学ぶことで克服することができた。この度の成果の一つである。)こんな状態で生涯を終えるわけにはいかないのである。
そしてもう一つの大きな理由は、武器としての法学を身につけたかったからだった。この10年間近くに渡る安倍政権の下で、日本社会は急激に右傾化した。人種差別主義者やファシストが恥じることなく堂々と路上に現れるようになったばかりか、むしろ政権やメディアの中枢を連中に乗っ取られてしまった状態である。こうした反知性的な連中との闘いには、知性を武器として臨むしかない。さらに有態に言えば、ネトウヨを相手に訴訟を提起する場合、弁護士の方への委任に先んじて、訴訟戦略の立案や証拠収集くらいは或る程度自分でできるスキルを身につけたかったのである。

40年前とはいえ一旦は大学を卒業しているので、今回の入学は3年次への編入となり、修学期間は最短で2年ということになった。たまたまコロナ禍でのリモート・ワーク中心の期間と重なったため、勉学のための時間は余裕をもって確保することができたのである。そうは言っても働きながらの勉強は簡単なものではない。どのように時間をやり繰りして勉強を進めていったのかという話については、それだけで長くなってしまうので今回は割愛し、後日改めて整理することにしたい。

さて、卒業に当たっての思いを一言で表すと「幅も深さも全然足りなかった」ということになろう。実はこの思いには既視感がある。40年前に工学部を卒業したときと似ているのだ。当時は、専攻していた有機化学の研究者になりたいという身の程知らずの考えを抱いていた。実際、研究者として身を立てるには、修士課程を修了していることが最低限の条件だった。だからこそ大学院へ進学したのだが、逆に自分には化学実験の才能が根本的に欠如していることを思い知らされる結果となった。化学の研究者になるためには単に知識だけではなく、昼夜を厭わず化学反応を観察し続ける根気や、生成物を丁寧に取り扱うための手先の器用さなどが必要だったのである。結局、修士課程の修了後は研究の道に進むことを断念し、IT業界へ転身することになるのだが、大学院へ進学しなければ自分の才能の無さに気づくこともなく、進学しなかったことを生涯後悔していたかもしれない。そう考えれば、修士課程の2年間も、己の無力さを知ることで無駄な時間ではなかったような気もする。

40年前の話から、今回の法学部卒業に戻したい。まず、法学の専門性の深さが圧倒的に足りていないとの思いは、工学部卒のときと同じである。加えて今回は、学んだ各科目が有機的に連携した総合的な知識を形成し切れていないことに気づいてしまった。例えば、民法の債権を例にしてみたい。これらの科目、あるいは条文自体、このような体系になっている。
民法総則 – 債権総論 – 債権各論
いわゆるバンデクテンと呼ばれる体系であるが、IT業界的な言い方をすれば、まず民法総則で全体のデフォルト値を設定し、その一部を債権総論で置き換え、さらにまたその一部を債権各論で上書きするという構造になっている。したがって最終的には、民法総則から債権各論までを一体として理解していなければならないのだが、履修が終わった後でも、なかなかそうなっていないのが現実であった。
科目の内容として、もう少し細かく説明しておきたい。民法総則では行為能力や代理、時効などが中心になる。そして債権総論では債務不履行や債権者代位権などが中心になり、債権各論でようやく契約に関する条文を学習することになる。しかしこれらの科目の理解がばらばらのままで、一気通貫の理解ができていないと、例えば「成年後見人は、成年被後見人の行為に対する代理権、追認権、取消権を有するが、同意権を有しない」というような問題を理解することができないのである。
そして民法の体系の理解を「縦の連関」とすれば、さらに「横の連関や包含関係の理解」も必要であった。例えば行政訴訟法を理解するためには民事訴訟法の知識が前提になるし、環境法と行政法に至っては両方を学んで初めてそれぞれに腹落ちする構造になっている。これらはシラバスだけでは判らないし、実際に勉強してこそ初めて気が付くポイントであった。
要するに、法学の学習は、各科目の単位を取得すればいいというものではなく、法学という学問のメタ構造を頭の中に構築する作業が必要だったのである。そして卒業にあたってもなお、これが全然できていないことに気が付いてしまったのだった。

さらに付け加えると、法学以外の教養課程の科目については、東大で取得した単位を利用して免除してもらったことが仇となり、法学科目以外の人文系科目がほぼ手つかずという状態での卒業になってしまった。具体的には、政治学、社会学、哲学、経済学、心理学など、人文系の学生なら学んでいて当然と思われる科目の履修がごっそり抜け落ちているのである。これは「人文系の教養を身に着けたい」という当初の目的を振り返ると、致命的な事態と言わざるを得ない。そして、法学としての教養を広げる科目群である、法哲学、外国法なども修了できていない。さらに法学の専門性をより深めるという観点でも、民事訴訟法に続くべき民事執行・保全法や倒産処理法、租税法などが履修できていない。(特にネトウヨ対策には民事執行法の知識は必須であろう。)冒頭で書いたように「幅も深さも全然足りない」ままであり、このまま卒業という言葉に甘んじるわけにはいかないのである。

そういう訳で、卒業したばかりであるものの、引き続き聴講生として学習を続けていくことにした。むしろもう卒業を気にする必要もないので、これからじっくりと腰を据えて学習に取り組めると思う。
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