Photo by "My Life Through A Lens" on Unsplash コロナウイルス対策で、安倍政権が見るも無残な姿をさらけ出してる。 マスク二枚もまともに配布することができないし、そもそも感染者数すら正確に把握できていない無能ぶりだ。 さらに人々に外出自粛を呼びかける一方、給付金配布で迷走し、もはや「飢えて死ね」と言わんばかりの有様である。 このように政府がまともに機能しなくなった時、人々は「相互扶助」を自発的に開始する。 「相互扶助」が社会の発展に大きく寄与するという概念は、19世紀末に活躍したアナキストのピョートル・クロポトキンが著作「相互扶助論」にて解き明かしたものだ。 そして災害時の「相互扶助」の数々の事例は、レベッカ・ソルニットの「災害ユートピア」にて紹介されている。 コロナウイルス COVID-19 の蔓延が世界的な災害であると観れば、世界中で「相互扶助」が立ち上がると考えるのは、アナキストの立場では当然であろう。 コロナウイルス禍でのアナキストとしての心構えは、CrimethInc. の記事 “Surviving the Virus: An Anarchist Guide” にて紹介されており、さらにこれを名波ナミ氏が「ウイルス禍を生き延びるアナキスト・ガイド:危機の資本主義と台頭する全体主義――抵抗の戦略」として日本語に翻訳してくれている。 ここではこれらを受けて、クロポトキン研究家であるロングソロー大学教授のRuth Kinna氏による論考 “This anarchist thinker helps explain why we feel so driven to help each other through the coronavirus crisis” を翻訳し、コロナウイルス禍と「相互扶助」の関係性を考える一助としてみたい。 なお、人々の自発的な「相互扶助」がどれほど大きくなろうとも、日本政府の無能無策が免責される理由には一切なり得ないことは強調しておく。 空になったスーパーマーケットの棚やパニックに陥った政府の会見が、コロナウイルス危機の決定的なイメージになっている。 しかし、コミュニティの反応は、もっと永続的な機能であるかもしれない。 ウイルスと社会的孤立の強制が、不確実性と不安を引き起こしている。 一方、ローカルなボランティアが運営する相互扶助のネットワークの範囲も拡大しているのだ。 これらのグループに関わる人々の多くは、「相互扶助」という用語が19世紀のアナキストであるピョートル・クロポトキンによって有名になったことを知っている。 クロポトキンは、自然は利己的な個人間の競争的な戦いだと見做した社会ダーウィニストを攻撃するために「相互扶助」を使用した。 「適者生存」はキャッチフレーズとなり、人々、人種、国家の間の敵対的な関係を説明するために使用された。この考え方は、欠乏に対する当然の反応として攻撃性を正当化した。 現在の文脈では、手指消毒剤の最後のボトルやトイレットペーパーの最後のロールの確保が予めプログラムされた、避けられない対応であるということになる。 最強の者のみが生き残るのであれば、他人はライバルあるいは敵とさえ見なされるべきであり、私たちは他人に対して身を守るために必要なすべての手段をとる権利がある。 クロポトキンは競争が生物学的適合性を決定する要因であることを受け入れたが、彼の主張は協力もしくは相互援助も同様に重要であるというものだった。 倫理的な考え方として、相互扶助は、報酬を求めることなく人々が他者を助けるために行う努力であると説明される。 それはローカルで自発的な組織で成功する。 難破船の犠牲者を救うための国家機関設立を支援するためにウィリアム・ヒラリーによって英国で開始された救命艇協会は、クロポトキンが考えていた倫理的な自己組織化の一例だった。 ヒラリーは1825年に彼のプロジェクトを支持するように国王へ訴え、彼の目的は「平和であれ戦争であれ、あらゆる国の人々と船」を支援することであると説明した。 彼の動機には「個人的、国家的、そして普遍的」なものが同居していた。 彼は英国の協会の設立が、世界中の姉妹組織の設立を促すであろうと想像した。 クロポトキンは、救命艇協会が「協力…熱意…ローカルの知識」に依拠していたため、救命艇協会を気に入っていた。 救命艇協会は困窮している人を救う。 しかもローカルの行動に依拠しているため、どこでも簡単にまねをすることができた。 連帯を築くためのグローバルなネットワーキングのテンプレートであった。 危機の時に共に働く これは、人々がコロナウイルスの蔓延に直面するにつれて拡大しているサポート・ネットワークの中に見られる精神である。
隣人を助ける隣人。家を離れることができる人々は、弱者のために処方箋や生活必需品を集めている。 町々や都市間にまたがるグループはリソースをプールしているため、誰も取り残されることはない。 コミュニティのサポートは常に人間の社会生活の中心的な側面であった。 人々が日常のさまざまなタスクに取り掛かる方法を調べた調査では、私たちが想像するよりもはるかに長い時間が、無給のコミュニティ支援に費やされていることが示されている。 互いの子供たちの世話をしたり、互いの車の修理を手伝ったりするといった、相互扶助と協力が社会を駆け巡る。 利益の見込みが私たちの行動を動機づけると考えるのは間違いなのだ。 相互扶助は、危機や恐ろしい大災害の時によく観察される。 たとえば、米国のハリケーン・サンディとロンドンでのグレンフェル火災の余波である。 相互扶助の出現は今や、日常の連帯の能力に関するクロポトキンの観察を裏付けている。 彼は問うであろう。 私たちの社会組織を再考するため、これらの実践をどのように拡張できるだろうか。 クロポトキンは救命艇協会を「完全に自発的」であると説明した。 クロポトキンが救命艇協会は計画が無かったと考えていたわけではない。 法律によって強制されたのではないという意味である。 信頼と実践は、ローカルの自己決定への協力と尊敬を通じて再生された世界に関するビジョンに不可欠であった。 リソースが限界まで拡大しているため、世界中の政府は相互扶助のネットワークに依存することによって、孤立して最も危険にさらされている人々のために買い物をしたり、士気低下を防ぐためにサポートの事実上のメッセージを送っている。 おそらく、そうすれば、コロナウイルス後の世界で、コミュニティ・ベースの組織を維持する方法について考え始めることができる。 相互扶助の政治と、公共サービスの民営化を目的とした新自由主義のプロジェクトとの間には大きな違いがある。 クロポトキンは、大企業や資金に縛られたボランティアに委ねられた公共サービスの責務を望んでいなかった。 彼の目的は、既存の権力構造を攻撃することであった。 相互扶助は平等の条件のもとで広がり、それは分散した連合体を目指すアナキスト運動の必要なパートなのである。 危機後に通常の緊縮財政が復活すれば、相互扶助の豊かな土台は枯渇するだろう。 対照的に、ベーシック・インカムの維持と拡大は、草の根の社会的変化を長期的に維持し、促進することを助けるだろう。
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